2014年5月2日
あらかじめ述べておくが、この文章はあの悲惨極まりない韓国フェリー沈没事故のA級戦犯が船長であるということを言うものではない。題名通り、靖国神社に神として祀られているA級戦犯と沈没フェリーの船長との関連について述べるものである。
あのフェリーの船長の罪を挙げれば次のとおりである。
・ 積荷過積載、積荷固定の不十分等の沈没原因を作ったこと。
・ 状況を的確に把握できず、適切な対応措置をとらなかったこと。
・ 乗務員を指揮命令下に置くことに失敗したことあるいは放棄したこと。
・ 乗客救出義務を放棄し、自分の脱出を優先する行動をとったこと。
これらの行為に対して殺人罪が適用されるとの報道があるが、殺意という点において殺人罪の適用は困難であろう。しかし、刑法上の殺人にはならなくても、倫理道徳上許されないのは当然であり、日本国内でも船長の判断・行動に対する強く、激しい憤りが広まっている。明らかになった事実に対する極めて自然な反応である。
一方、太平洋戦争における日本の指導者たちの罪のうち日本国民に対する罪を挙げれば次のとおりである。
・ 沈没(敗戦)必至の欠陥船に国民を乗船させ、出航(開戦)したこと。
・ 状況を的確に把握できず、本土空襲と広島長崎の原爆を受けるまで沈没は免れうると謬信していたこと。
・ 部下たちに客観的情報に基づく的確な指導を行うことができず、精神主義と靖国信仰という誤魔化しによる支配によって部下たちに自滅の道を強いたこと。
・ 一部の例外を除き、権力を振り回し、国民一般の窮乏化の中で個人的利益を享受したこと。
罪の内容としてフェリーの船長と類似性を有し、罪の規模としてはフェリーの船長をはるかに超える桁違いの巨大な罪を犯している。悪意の有無という問題の矮小化を許さないレベルの罪である。
このようなことからすれば、靖国神社へのA級戦犯合祀は、対外的問題である以前に、被害者たる国民が断固拒否するのが自然な反応のはずの問題である。
フェリーの船長への激しい憤りという自然な反応と比べて、数千万の命を奪うという悲惨を日本とアジア諸国等にもたらせた戦争指導者たちへの日本人の反応が甘いのはどうしたわけだろうか?
そのアンバランスは不可解というほかはない。
なぜ戦争指導者に対しては自然な反応が日本人に生じていないのであろうか?
まず言っておかなければならないのは、戦争指導者たちを断罪する心理は、当然のことながら、戦後長い間、日本国民の中に広く厳然として存在していたということである。
しかし、一方にあった戦争指導者擁護の立場との対立が、資本主義対社会主義というイデオロギー対立の問題として歪められたため、客観的な戦争責任の分析がおろそかにされることになってしまったということがある。
また、他国からの戦争指導者たちへの追及が厳しかったため、それへの反発として擁護の心理が醸成されてしまったということもある。
さらに、背後にあって戦争指導者たちを導いたものは何であったのかということについて、天皇制と資本主義制度にかかわることとなるという意味でアンタッチャブルな雰囲気が戦後においても強く、これが客観的分析を妨げる効果をもったということも考えられる。
ところで、フェリーの船長に責任を客観的に追及していくにあたって、他国からのことを考慮する余地などあるはずはなく、また問題の解明には船長の背後にあるものが追及されることになるのは言うまでもないことである。
太平洋戦争における悲惨をフェリー沈没事故とのアナロジーで考えれば、戦争指導者たちに対して我々がとるべき姿勢はおのずと明らかであろう。神として祀り上げるというようなことは決してありえず、責任追及のための客観的分析が厳しくなされなければならないはずだ。
安倍首相、そして新藤総務相、稲田特命相といった閣僚連中は、たぶんイデオロギー対立へのとらわれが強すぎる結果として、以上のことが理解できていない。偏向ナショナリストたちが日本と日本人を「ふつうの国」「ふつうの民族」ではなく「へんな国」「へんな民族」にしている。