2014年3月16日



 理化学研究所記者会見において小保方晴子さんは「未熟」と評された。研究所側は小保方さんへの配慮によって「未熟」という言葉を使ったものと考えられる。しかし、「未熟」というのは熟達によって克服されることを意味するもので、小保方さん問題の本質からすれば、的確な表現とは言えない。


 科学というものはひとつの信仰である。その信仰の対象は「理性」である。「理性」の承認があったもののみがその存在を許される。「神」「悪魔」「霊魂」「UFO」はその存在が承認されていない。質量をもたらす「ヒッグス粒子」は存在が承認されたもののうち最も新しいもののひとつである。


 小保方さんはSTAP細胞と遭遇してしまった。小保方さんにとってその遭遇は否定しがたいものであった。それは「神」「悪魔」「霊魂」を実際に経験した者にとってその経験が否定しがたいものであることと同質である。しかし、その経験がいかに経験者にとって絶対的なものであろうと、それだけでは科学の神殿に祀ることはできない、許されていない。

 小保方さんが経験を絶対視したことまでは、それが個人にとどまる限り、許容の範囲内である。しかし、小保方さんはそれを神殿に祀ろうとした。しかも、「理性」の峻厳さをいかにも甘く見て、「理性」を欺いて祀ろうとした。


 小保方さんの行為は明らかに科学という信仰の第一命題に反している。「異端」であり、科学の世界からの断罪は免れない。

 痛々しいことこの上ないが、ひとたび科学の神殿にひざまずき、身を科学への奉仕に捧げた以上、神殿から石をもって追われることにならざるを得ない。


 ひるがえってこの神殿に住まう者たちの実態を見ると、特に「社会科学」を標榜している者たちの実態を見ると、断罪されるべきは小保方さんのみではないことが痛感される。

 一般社会で「通用」することと科学の世界で承認されることとは次元が違う。「常識」と「理性」は同じではない。

 我々は科学の成果をおおいに享受していることから、科学的であることを尊重し、また自分も科学的であると認識している。そのような受益を背景とする信仰はもろく、危うい。

 信仰は厳しい抑制を要求するのであって、人間の有する「理性」以外の認識装置を切り捨てることを科学は要求する。「理性」以外の認識装置を切り捨てて「理性」に帰依すること、それが科学である。