2014年2月26日
「宮岡恒次郎・その2」を予定していたが、本日(2月26日(水))朝日朝刊文化欄に「都美術館、政権批判作品に撤去要請~政治理由制限必要か」というコラムが掲載され、本件に一言あるので予定を変更することにした。
ことは、「東京都美術館で、「現政権の右傾化を阻止」などと記された紙を貼った立体作品に館が撤去を求め、作者側との協議の末にこの紙がはがされた。」(同コラム)という事件である。
はらまれている問題は「表現の自由と政治的中立を要請される公的施設の管理」「芸術表現と政治主張」である。
・ 館側の撤去要請の根拠は同館の運営要綱にある。「施設の使用を承
認しないことができる場合」として「実施する事業が特定の政党・宗
教を支持し、またはこれに反対する等、政治・宗教活動をするための
ものと認められるとき」が掲げられているという。
この規定は極めて常識的なものであり、このような規定を置いておかなければ施設が政治活動の場と化すことは容易に予想され、規定に問題はないと考えられる。
・ 問題はこの規定の運用にある。一般的に規定というものは一定の抽象性を免れない。それを具体的にいかに運用するかによって規定は生かされもするし、人々を抑圧する道具にもなる。
今回の場合、撤去対象となった作品が実際に問題を発生させたわけではない。館側が作品中に貼られている紙を発見し、館側がこれを問題としたのである。
ここには貼られている紙が芸術作品としての一体性を有するか、という芸術的観点がいささかも見えない。規定に該当するか否かという貧しい発想があるだけである。このような発想は「官僚的」とか「小役人的」とか呼ばれるものである。このような発想の蔓延が社会を保守化し、内部密告社会、隣組的相互緊縛社会を作り上げるものである。
アンナ・ハーレントがナチ戦犯裁判において見出したものこそ、人々が一般に持っているこのような官僚的、小役人的体質である。このような体質がまさに政権レベルにおける右傾化を日常生活に引き込む機能を果たすのである。
規定の運用において誤りを犯し、規定の運用という重要な判断をゆだねられていることへの自覚が不十分だった館側の猛省を促したい。
・ 一方、作者側は館側の要請に応じて作品からこの紙をはがしたという。その作品においてその紙はそんなに軽いものであったのか。芸術において絵画の一筆、音楽の一息、文の一句読点といったものは作者のギリギリの表現意欲の結実として決断されるものである。容易に付けたりはがしたりすることができる性質のものとは考えられない。問題となった紙が作者側において容易にはがされてしまったという事実からすると、その作品に対して作者が本気であるのか大いに疑問を感じさせられる。作者側は大いに館側とこの問題で対決すべきであったろう。それでこそ「現政権の右傾化を阻止」という紙に書かれたメッセージが生きたはずだ。館側に情けない妥協をした作者側にも猛省を促さざるをえない。そんなフニャフニャでは右傾化阻止はできないことを肝に銘じてほしい。