2014年2月22日
大森貝塚の発見で教科書レベルでも有名なアメリカ人エドワード・モースは、明治15年に2度目となる埼玉県を訪れた。そこで川越氷川神社の宮司(山田衛居)から見せられた土器の破片について、人肉食が行われた時代のものと発言し、日本には人肉食はなかったとする日本人との間で一悶着を起こしている。我が国における実証的考古学の始まりとなる有名な事件である。
しかし、本稿はこの事件の詳細を報告することが課題ではない。この2度にわたるモースの埼玉訪問に同行し、少年ながら通訳を務めた宮岡恒次郎について報告したいと思うのだ。
モースの第1回訪問時、宮岡恒次郎は14才、その2才上の兄八太郎も通訳を務めている。恒次郎はモース第1回訪問時にはテクニカル・タームを多かったであろうモースの講演「日本古人種論」の通訳も多くの聴衆の前で務めている。
なぜ、そんな子供に英語の通訳が可能だったのだろうか?
ちなみに恒次郎は、モースに加えて、岡倉天心とともに日本美術の価値を発見しその再建に決定的貢献をしたアーネスト・フェノロサ、富士山での重力測定を行うなど日本に地球物理学をもたらせたトマス・メンデルホール、日本・東洋研究家でアメリカに日本・東洋文化を紹介するとともに天文学者としてロウエル天文台を私財を投じて建設したパーシヴァル・ロウエルの通訳を務め、単に彼らの通訳を務めたにとどまらず、彼らの日本理解に重要な役割を果たしたことが認められる。そして、仕事の関係を超えて彼らとの間で終生にわたる親交を結んでいる。
また、明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている。
宮岡恒次郎の英語力は並々ならぬものがあったと考えられるのだ。
恒次郎は慶応元年(1865年)、現在の荒川区日暮里で生まれ、明治7年には9才で東京英語学校に入学している。この学校は、その後大学予備門となる学校で、旧制一高の前身である。
この学校の英語教育が大変すばらしかったので9才の子供が数年学んだだけで学者モースの通訳もできるようになった、また恒次郎は年長者に交じってこの教育をこなすだけの語学の天才だった、というのでは話が簡単すぎる。「まゆつば物語」になってしまう。
しかし、見つかった記録だけからはこの「まゆつば物語」が構成されざるを得ない。とはいえ、そもそもなぜ恒次郎の東京英語学校入学が可能だったのか。東京英語学校はその後一高になったように官立の学校であり、お金があれば入学できるというような学校ではない。なぜ恒次郎が選抜されたのか。疑問は大いに残る。
このような状況の中で、筆者は恒次郎のお孫さんの話を聞くことができた。お孫さんといっても大正15年生まれで、このたび米寿を迎えられた老嬢である。恒次郎は昭和18年に亡くなっているので、成人直前まで恒次郎の話を直接聞くことができたという方である。
その方によれば、恒次郎は7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたというのである。
恒次郎は竹中家次男として生まれ、その後川越の宮岡家の養子となったという。モース埼玉訪問時にいっしょに通訳を務めた兄・八太郎は竹中姓である。
この恒次郎少年期密航説は記録上の確認はできておらず、お孫さんの証言あるのみではある。しかし、この密航説によってずば抜けた語学力を理解することができるようになる。
そしてモース埼玉訪問時、恒次郎の兄八太郎も通訳を務めていたことからすると、八太郎もまた恒次郎とともにアメリカに密航していことによって語学力を身につけていたのではないか、とも推定される。
恒次郎の語学力獲得の理由が密航説で理解できたとしても、7才の子供がひとりで決心してアメリカに密航するということは考えにくい。単独ではなく、兄八太郎と一緒だったのかもしれない。
もし、密航が事実であれば、また兄弟での密航であればなおさらのことに、その密航にはそれを支える大人たちの存在を推定せざるをえない。
密航というのは、明治政府の許可、承認の下での渡航ではなかったという意味であり、子供たちだけで考え実行した密航ではなく、バックに大人たちがいた「密航」だったのではないだろうか。
このことについて次回にさらに考える。