2014年1月19日


 先日「紀尾井ホール」で開催された「国産絹筝弦を聴く会」で尺八の演奏家・研究者の志村禅保氏は次のような趣旨の話をされた。

 「これから邦楽は『窮める』時代を迎えると思う。江戸時代は『声音』を大事にする、音を『窮める』時代であった。しかし明治以来、日本の邦楽は音を『大きく』『強く』、そして『広く』聴けるということの追求に方向が変化した。そのために楽器も変化してきた。しかし、これからは『窮める』時代がまた始まると思う。」

 


 邦楽の世界にとどまらず、志村氏の指摘した二つの方向は、芸術の世界に生きる人々の大きな選択肢であろう。

 しかし、芸術家にとって主観的に選択肢である二つの方向が客観的にも、ということは社会の動きからしても選択肢であるのか、ということについては、寂しくも悲観的にならざるを得ない。


 「窮める」ことのためには、邦楽の場合で言えば、演奏家と楽器製作者を必要とするが、前提として鑑賞者の「聴く耳」を必要とする。志村氏は「声音」と表現されたが、「音質」という言葉を超えたところにある「肌触り」「風合い」などのひとつひとつの音の個性、そういう方向で「窮められた」音を「聴く耳」がこれからの時代に存在するであろうか。

 江戸時代にそういう「聴く耳」を育んだものは、江戸時代の富、江戸時代の精神、江戸時代の音楽が置かれていたTPO(Time Place Occasion)であったろうと思われるが、現代にそれに相応するものがあるだろうか。


 人の耳はその必要性から人の声に対して最も敏感である。いい声、悪い声というものは単純な基準によって決定されているものではない。聴く側が置かれている精神状態によって評価は大きく変化する。その結果生まれた発声の多様さは、西洋音楽に比べて、邦楽において顕著であるといえよう。演歌の世界も一つの象徴である。人の声についてそこまでの到達があることに一縷の望みがあると言えば言えるのだが、楽器の音についてはどうだろうか。