2013年12月28日



 電車に乗っていたらユニフォームを着た運動部の女子中学生か高校生が一斉に乗り込んできた。ワイワイ、ガヤガヤ、楽しそうにおしゃべりしまくっている。明治のはじめ富岡製糸場に送り込まれた女性たちはちょうどこの女子学生たちのような雰囲気だったのだろうと、「富岡日記」を読み終えたばかりの筆者は直観したのであった。

 富岡製糸場は明治6年(1873年)、現在の群馬県富岡市に明治政府により官営工場として設立された。その目的は、当時の輸出主力商品であった生糸(総輸出額の約5割)の生産増強、品質高度化のための模範工場の設立であった。

 したがって、全国から工場に集められた女性たち(「工女」と呼ばれた。)は、単に労働力として集められたのではなく、高度技術の取得により全国の製糸工場にその技術を普及すべき模範となることを期待して集められたのであり、送り出す側も帰国してからの地元への貢献を期待して送り出したのであった。だから彼女たちは強い使命感を持って積極的に技術を学ぼうという意欲に燃えていたのであり、ある種のエリート意識を持つ女性たちだった。

 「富岡日記」(正確には「明治6、7年松代出身工女富岡入場の略記」)はそういう彼女たちのひとり・和田英が明治40年になって当時の思い出を記したものである。このため「富岡日記」は彼女たちの使命感、誇りなどがよく表われたものとして紹介される。

 しかし、ティーンエイジャーが中心だった彼女たちである。その彼女たちの姿は決して単純な優等生像に還元できるものではない。「富岡日記」は女性たちの若さいっぱいの多様な姿、自然な思いが生き生きと描かれている。おもしろいエピソードも盛り沢山なのである。

 そういうエピソードのいくつかを紹介しようと思う。



 その1 仕事中の遊び


 製糸場入場の当初、信州松代から来た彼女たちは、まず繭の選別作業に従事させられる。これは繭を生糸にできるものとそうでないものに分ける作業である。形のおかしい繭、傷ついた繭、汚れた繭などを排除しないと機械で繭から生糸を引き出す作業(繰糸作業)が滞ってしまう。それを防止するための繭の選別(選繭作業)を行うのである。

 重要な作業ではあり、厳しく指導されるが、作業自体は単純な作業であり、飽きてくるし、屋内の温かな場所での作業なので眠気を催してくる。

 そこで始まったのが蠅を使った遊びである。

 蠅を捕まえる。その羽をもぎ取る。蠅の背中にわらしべを刺す。そこに繭のわたをより付けて蠅に繭を運ばせる。わらしべに小さな紙をつけて旗のようにしたりもする。

 一同笑って楽しんでいたが、監督者に見つかり、誰が始めたのかと問い詰められるのだが、知りませんと一同しらを切るのである。



その2 なまりがわからず外国人と誤認


 全国から集まっているし、町の出身もいれば村の出身もいる。お互いにお国なまりがよくわからない。また行儀という点でもずいぶんとレベルの違いがあったもようである。信州出身者の行儀が悪く、恥ずかしいので、町出身の自分たちは信州出身とは言わずに長野県松代出身と言っていたという。

 これは「富岡日記」に記されているものではないが、山口から入場した者が残した談話には、製糸の先生に西洋人で「エンドウオコウサン」という人がいたという。

 富岡製糸場にいた外国人指導者はフランス人である。宮城県から「遠藤こう」という人が富岡製糸場に来ていた。山口出身者には東北弁がチンプンカンプンで、「遠藤こう」をフランス人だと間違えていたのである。


 さらなるおもしろエピソードは次回に。