2013年12月12日



 「日本への愛は?同胞への愛はないのか?」と問われ、「一つの民族を愛したことはないわ。日本民族を愛せと?私が愛するのは友人、それが唯一の愛情よ。」と日本人が答えれば、ナショナリズムへの警戒が一定程度形成されている民主国家日本においても、有名人の発言であれば、いささか物議をかもすであろう。

 ハンナ・アーレント(1906~1975)、ドイツ系ユダヤ人、収容所から脱出してアメリカに渡り、哲学者、政治学者として活躍した彼女は、そのアイヒマン(ナチスのユダヤ人列車輸送の最高責任者)裁判レポートから反ユダヤ、親ナチスと疑われ、古くからの友人にイスラエルへの愛、ユダヤ人への愛を問われて、上のようにきっぱりと答えている。



 大盛況の映画「ハンナ・アーレント」(岩波ホール)を観た。



 民族とか国家とか、「非実体的・超越的・抽象概念」はそれに服従することによって一般の人々に思考の停止を許容することになる。その思考停止は巨大な悪のメカニズムの中に人々を巻き込む。その結果、筆舌に尽くしがたい残虐が普通の人々によって人類にもたらされる。

 ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判を考え、考え尽すことによってこのことを見極めた。これを「悪の凡庸さ」と名づけた。だから、「イスラエル」、「ユダヤ人」を安易に奉ることを彼女は自分に許さなかった。ナチスの論理と同じ論理に身をゆだねてしまうことになるからだ。彼女は自分の思考に忠実だった。



 ひるがえって我々のことだ。

 我々が国を愛するとか、民族を愛するとか言っているときの国とか民族とは何のことだろう?愛する対象となっている実質は何なのだろう?何か実体的なものがあるのか、それとも実体はまったくないのか?

 また、愛するということの内実は何なのだろう?その感情はいかなるものなのだろう?どこから生じた感情なのだろう?人に対する愛と同じ感情なのだろうか、ちがう感情なのだろうか?

 このことを考え尽し、見極めることによって、我々は対象に対して具体的な行動をとることができるようになるであろう。

 このことを考え尽くし、見極めることを怠ると、「非実体的・超越的・抽象概念」を掲げて人びとをコントロールしようとする・シンボルを操作する者たちに我々の素朴な心が弄ばれることになるであろう。

 安易に愛国心などという言葉を使うべきではない。