2013年11月11日



卑弥呼の「邪馬台国」と天皇家の大和朝廷はつながっているのか、つながっていないのか、どういう関係にあるのか、という日本史上の大問題がある。当然「邪馬台国」九州説、近畿説のいずれが正しいかという問題に密接に絡む。



筆者は福岡県八女にある筑紫君磐井の墳墓・岩戸山古墳を実見して以来、筑紫君磐井が大和朝廷に対する地方の反逆者であるという図式は考えがたい、仮に墳墓が生前から築造されていたものとしても、墳墓がこんな姿で破壊されずに残されているということは筑紫君磐井が単なる反逆者ではないことを示している、と考えてきた。

そして、しからば筑紫君磐井とは何者だったのだろうかとあれこれ想像を巡らしてきた。



そして遅ればせながら古田武彦氏の「失われた九州王朝」「『風土記』にいた卑弥呼」を読む機会を得て、これまでの疑問は氷解したのである。

 多くの詳細な立証の当否を語る資格は筆者にはない。しかし、そこで示された次のような大きなストーリーはほぼ間違いないと感じている。

1 「邪馬台国」は九州北岸にあり、その後の九州王朝の元となった。(邪馬台国を「」付きで表示していることにも意味があるのだが細かくなるので割愛する。)

2 その後の倭の五王はその九州王朝の歴代の王である。

3 筑紫磐井の乱(528)は九州王朝と大和朝廷との間の覇権争いであり、その戦いでは九州王朝側が敗北したが、その後も九州王朝は存続していた。

4 白村江の戦い(663)の敗北によって九州王朝は最後を迎えた。(ここについては筆者は確信に至っていない。)



現在の歴史教科書はこの問題をどう扱っているのだろうか。

 日本資本主義論争がその目的するところとは別に幕末明治の歴史分析に大いに貢献したように、「邪馬台国」近畿説・九州説の間の論争によって古代史研究が深まりを見せたことは否定できない。が、そろそろ近畿説には退場願う時期を迎えているのではなかろうか。