2013年8月24日


 「ヒューマニズム」とは、「イズム」とされていることからも明らかなように、ある視座、価値観をこの世に持ち込もうとするものである。ゆえに「ヒューマニズム」は他の視座、他の価値観と対立、対抗することになるものである。(その「イズム」の誕生の経緯からすれば、「ヒューマニズム」がまず対立、対抗したものは、キリスト教における「神」であった。)
 一方、般若心経の思想は、「ヒューマニズム」「キリスト教」を含めたこの世の視座、価値観、またそこから得られる世界像、自然像、社会像を、まったく実体のない空疎なものだ、虚だ、幻想だ、幻像だとして否定しさってしまう。「色即是空」では近代以降人類が獲得した理念である「基本的人権」「民主主義」もまた「空」である。
 般若心経の思想は現代社会の基本原則と両立し得るものなのだろうか?

 禅における公案というようなものをのぞいてみると、「色」が「空」であることを人びとに思い知らせるため、「論理」「理性」に対する徹底的な破壊的攻撃がなされているように思える。仏教の本質にそのような性格があると思える。一方、本稿のみならずこの一連の通信は、一応「論理」「理性」を基礎とすることにしている。したがって、以下述べることは仏教的立場からは「全く『場』を心得ぬもの」「あさってのお話」「牽強付会」と頭から相手にされない考えなのかもしれない。しかし、「ヒューマニズム」を擁護し得ない思想に対しては筆者は対立、対抗せざるをえないように生まれ育ってしまっており、仮にそれが反仏教的立場を要求するものであれば、それもまたやむを得ないものと考えざるをえないのである。

 さて、般若心経においては、「色即是空」の次に「空即是色」と続く、「色不異空」の次に「空不異色」と続く。
 インド哲学に詳しい人は、ここにインド思想のくどいというほかない・繰り返し性向、粘着性格を指摘するかもしれない。
 しかし、その方面に無学の筆者は、「色即是空」の次に「空即是色」と続き、「色不異空」の次に「空不異色」と続くことについては、「色即是空」「色不異空」とは別の、追加的メッセージがあると考えるのである。

 「色即是空」「色不異空」と宣言されたまま「空」の世界に放置されたら、人間はその瞬間から行動原則を失い、いささかの行動をとることも不可能になる。生きることもできないし死ぬこともできなくなる。そのような状態に人間を放置したとしたら般若心経は中途半端な教えということになろう。さすがに般若心経はそのようなことはなく、次のようなメッセージを発して人間を導いているのではないだろうか?

 「『色』が『空』であるのはいま述べたとおりである。しかし『空』という認識のままで人間は生きていることはできない。『色』が『空』であるという冷厳な事実に立脚しつつ、人間は『色』をあらためてうち立てることにならざるを得ないのである。」

 般若心経が「ヒューマニズム」を評価し、推奨することはいささかもない、しかし、「改めてうち立てられる『色』がある」ことを想定している。
 したがって、我々は「色」を「空」として捨て去りつつ、いささかもためらうことなく、従前の「色」を「ヒューマニズム」によって新たな「色」に再編成すればいいのだ。新たな「色」もまた「空」であることを認識しつつ……。

 人間の永遠の「自由」はここにこそある。