2013年8月13日
修行を積んだ特定の者だけが救済されるという考え方が小乗仏教、およそすべての者は救済されるという考え方が大乗仏教、小乗仏教はスリランカ、タイ、ミャンマーなどの南方での仏教、大乗仏教は中国、朝鮮、日本という北方での仏教、というのが小乗仏教、大乗仏教の一般的説明である。
この小乗仏教、大乗仏教の違いを別の角度から考えてみようと思う。
病気の原因については大きく二つに分けられる。気候、生活条件、労働条件、細菌・ヴィールスの存在などのヒトにとっての外的条件が一つ。もう一つは本人の体質、抵抗力、遺伝などのヒトにとっての内的条件である。現実はこの二つの条件が重なって病気になる。どんなに外的条件が悪くても本人の内的条件がそれに打ち勝って病気にならないことがあるし、外的条件がよくても内的条件に恵まれず病気になることもある。強いヴィールスの場合は内的条件がいくら良くても罹患するであろうし、弱いヴィールスの場合は内的条件の違いによって発症に大きな差が生じるであろう。病気発症の場合の外的・内的条件のそれぞれの寄与度は病気の種類によって大きく異なるものと思われる。
その結果、治療は一般に二つの原因に対して行われるが、特に精神的病いの場合には、さらに自分が病気であるという自覚自体を問題とし、その自覚をなくすという治療、外的条件の認識を改めさせるという治療、また病気という自覚がない病気について、それが病気であると自覚させることによって治療するという治療がある。
さて、仏教がその対象とする病気にあたるものは「苦」である。「一切皆苦」「四苦八苦」「生老病死」等々仏教においては人間の置かれている基本的状況が「苦」であるとされ、そこからの解放が「解脱」「涅槃」「悟り」等々として理想とされている。また、外的条件の改善によっての「苦」からの解放という道は仏教の場合、(実際の社会においてはしばしば試みられはするが)あらかじめ断念されている。
ここで小乗仏教と大乗仏教の違いである。
小乗仏教の場合、「苦」からの解放は、内的条件を完璧に整備し、外的条件の認識の大転換を獲得することによって達成されることとされる。その結果、「苦」からの解放は内的条件の完璧な整備と外的条件の認識の大転換を得られる能力がある者に限られることになる。なぜ小乗仏教が一般大衆にとっての宗教となりうるのか、筆者はよく理解できないのであるが、特別な達成を得る者を崇拝し、帰依することによって一般大衆もある程度の効能が得られるということになっているのかもしれない。
一方、大乗仏教の場合、能力、修行等の区別なく、人々はすべて「苦」から救済されうるとするのであるが、如何にして救済されるかの具体的方法は宗派によって様々のようである。しかしながら、人々すべての救済があるということは、少なくとも能力の制約が大きくはないということを意味する。小乗仏教が能力の制約をほぼ絶対視して特定の者の救済しかあり得ないとするのに対してまったく逆の立場に立っている。
この大乗仏教の立場の根拠はどこにあるか。大乗仏教は、外的条件の存在を完全に否定し、また「苦」自体の存在も完全に否定している。すなわち、「苦」をもたらす外的条件が実は虚妄、幻想にすぎない、そして「苦」それ自体も虚妄、幻想にすぎないとしている。それゆえに虚妄、幻想に気がつくという唯一の条件さえあれば、人々すべては「苦」から救済されることになる。これが大乗仏教の立場を生んでいるのである。獲得すべきものが極めて限られているがゆえに人々すべてが獲得し得るということになるのである。すなわち、その獲得すべきものとは、大乗仏教の真髄である「空」であり「無」である。
現実的には小乗仏教も大乗仏教も、一般の人々に対して内的条件の改善、すなわち人々の「正しき」行動と「正しき」心の持ち様を求めるとともに、一方で外的条件の認識の変更を求めている。したがって、外見的区別はなかなかつきにくくなっている。しかしながら、小乗・大乗の本質的違いは、「苦」からの解放のために知るべきことの小乗の場合の複雑さと大乗の場合の単純さであり、それにより能力が必要とされる(小乗)か否(大乗)かである。
最近「NHK100分で名著・般若心経」を読む機会を得た。著者佐々木閑氏は小乗的立場の方のようで小乗の教えを「釈迦の仏教」とし、大乗は釈迦の教えではないとしている。それは一定の妥当性のある考え方だと筆者は思う。しかし、小乗(=「釈迦の仏教」)を科学的、論理的とし、大乗を神秘的、情緒的、呪文的とする区別はその本質を完全に見誤っているものだと思う。