2013年8月9日


 ホモ・ディメンス(homo demens)ということばがある。ホモ・サピエンス(知恵ある人)、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)というような人間の定義に並ぶもので、「錯乱する人」という意味である。
 ヒトと他の動物を分ける指標として「錯乱」という指標をもってきたわけである。
 他の動物は、自然(本能)の命じるところにより自らの種の世界像をもち、その世界像に従ってその生を営んでいく。その世界像は自然(本能)のもとで安定しており、とるべき行動に迷いの生じる余地はなく、他の動物は錯乱に陥ることはない。しかるにヒトは、自然(本能)の命じるところから逸脱し、生物学的必然性とは別の世界像を作り上げる能力をもってしまい、その結果世界像の不安定とその生物学的必然性との不一致・反自然性という状況におかれ(それが文化・文明である)、とるべき行動が一律に決定されないという・苦しき迷妄状態におかれ、他の動物では生じない「錯乱」に絶えずさいなまれる存在になっている。というのがホモ・ディメンスをヒトの定義とする立場の考え方である。


 仏教における修行というのは、この「錯乱」から解放されるために、本来的に迷妄惹起的な世界像から離脱し、あるいはそれを破壊することによって、安定的な・自然に則った・無矛盾的な世界像を獲得しようという試みなのではないだろうか?
 ヒトの抱いている世界像は、「言語」によって作り上げられている。「言語」によって伝達されている。そして今や全世界を席巻している西欧近代文明は、その世界像を「理性」によって主として支えている。この結果として、既存の世界像をターゲットとする仏教の修行は「反言語」「反理性」という性格をはらむことになる。「メディテーション」「苦行」「マントラ」といったものがもつ機能はそういったものであるような気がする。禅でいう「不立文字」などはストレートに「反言語」を宣言している。


 さて、修行の結果、ヒトの作り上げた世界像から離脱し、自然に則った世界像の獲得に成功したとする。それはヒトが他の動物と同じようになったということを意味するであろう。「錯乱」はなくなるかもしれないが、そこにあるのは「自然による完全なる拘束」であり、「自由」の消滅である。
 仮にそれが仏教の解脱とか涅槃(ニルヴァーナ)と呼ばれるものだとすれば、修行の成果に魅力は感じない。「錯乱」しつつ、「錯乱」はヒトの作り上げた世界像のインチキ性、不十分性のゆえに過ぎずと割り切って、世界像との戦いを楽しんでやろう。というのが外道・悪魔の筆者である。