2013年8月6日



 私の主観、例えばある山の姿の認識、それは他者のそれと同じであるであろうという感覚、この感覚があって我々はみんなと一緒に社会を形成して生きている。

 私の主観は私が現に感じているのだから、これを疑いようがない。(客観としての山が存在していることは疑い得る。しかし、私自身が現に山の姿を感じていること自体は疑い得ない。)

 しかし、他者も同じように感じているであろうという感覚は、なぜ生じるのであろうか?

 神秘主義者は、他者の脳みそのなかで発生している電磁現象が本人の脳味噌に感知されるというような説明をする。テレパシーだ。

 このような神秘論は人間の電磁波感知能力の限界と電磁波の実測によって容易に否定されるであろう。

 私の主観と他者の主観が同じであると感じられるという謎は、自然科学ではなく、文化現象としての立場から説明されなければならない。



 例えば、Aさんはスズメ、ツバメ、シジュウカラ、それぞれの鳴き声を聞き分けられるように育ったとする。Bさんはシジュウカラは聞き分けられるが、スズメとツバメの鳴き声は聞き分けられないとする。鼓膜が振動して得られる脳への電気信号はAさんもBさんも同じである。しかし、3種の聞き分けができないという場合があることをAさんが推測できなければ、Aさんは自分の世界はBさんの世界とは違うと考えざるをえないであろう。

 鳥の鳴き声は微妙な違いであり、この聞き取り能力をもって世界が違うとは納得されないかもしれない。例えば、動物の分類で足のある動物とない動物という区分しかなくて、主観はそのようにしか形成されない人々を想像すれば少しは納得できるであろうか。



 すなわち、主観の能力というものは、何にも依存することなく・先天的に・各自にあるものではなく、後天的に・人に叩き込まれた世界の分節(世界像)に従って形成されるものなのだ。そして主観が形成された時、その人はすでにある世界像を獲得しているのだ。主観は獲得された世界像の結果なのだ。

 言うまでもなく、この世界像獲得の役割を果たすのは、分節された世界にサインを付する結果としてのコトバである。コトバによる歴史的に形成されてきた文化の伝達こそが共同主観性の根拠なのだ。

 コトバが通じない異民族が接触した場合、身振り手振りで世界の分節の具合を交換する。そして主観の共有を認識し、ある程度行動を予測し得る・同じ人間存在であると安心するのである。身振り手振りはコトバの原初的形態と考えられる。