2013年8月2日


 「ナチスの『手口』に学んだらどうかね」という安倍政権ナンバー2の発言は「事件」ではあっても、「政策問題」ではない。この発言は麻生のビョーキがなさしめたものであり、ビョーキの人は治療に専念してもらうほかはない。

 

 麻生はものを考える力がない人である。所を得ればそれが魅力となることもある。麻生はそういう自分の積極面を自覚することができない。そして麻生はものを考えることを重要な要素とする政治の世界に間違って足を踏み入れてしまった。このため、彼は強い「弱さ」の自覚を感じざるをえなくなってしまったのである。彼は精神の根っこを「インフェリオリティ・コンプレックス」に支配されてしまったのである。

 今回の発言撤回にあたっての談話は官僚の作文と思われるが、明らかなウソに充ち充ちている。それを麻生は正直に読み上げるだけである。考える力がないから、コンプレックスがあるから、自分自身のことに批判精神のひとかけらもなく、唯々諾々と取り巻きに従うだけなのである。



 こういう麻生の「弱さ」「コンプレックス」の解消は「強がる」「賢ぶる」ことによってなされてきた。具体的には「偽悪趣味」と「権謀術数家気取り」である。それがマフィアを連想させる・外国出張時のソフト帽であり、いつもの皮肉っぽい・知ったかぶりの記者会見であり、今回のナチス発言である。内実はまったくないのである。ビョーキがとらせる一つのポーズ、彼が選んだ一つのファッションに過ぎないのである。(諸外国、とりわけユダヤ人団体にはこのことを知らせたく思うが、なんでそんなビョーキの人を日本は政権中枢においているのか、と再質問を受けることになろう。)



 ビョーキの人は世間に充ち充ちている。世間の知恵はビョーキの人との適度な距離感である。ビョーキは視線や口もとに現われる。それを本能的に感じとって世間は生活している。その距離感を間違えると山口・周南市の「八つ墓村」に至る。

 福岡8区の選挙民の方々に申し上げたい。麻生君はかわいい、さばけた、地元の人気者かもしれませんが、危ないビョーキの人です。かわいがるのと国会議員にしてあげるのとははっきり区別してください。かわいそうに今回の「事件」で彼のコンプレックスはまた更に強まると予想されます。