2013年7月12日



 「カジノ資本主義」という言葉がある。「カジノ」という道徳的非難のニュアンスのある言葉が使われることによって、現代資本主義が批判されている。

 しかし、そのような道徳性をはらむ言葉によって現代資本主義を表現したために、かえって現代資本主義の本質をわからなくさせていると思われる。言い換えれば、現代資本主義の病根がどこにあるかを隠蔽させてしまっていると思われる。




 「カジノ」=「ギャンブル」=「投機」=「チャンスに賭ける」という意味では資本主義はその成立時から「チャンスに賭ける」経済であった。

 しかし、資本主義社会が一時代を画すに至ったのは、その「チャンス」を物の生産という人類の普遍的な経済行為のフィールドに見出したがゆえであった。その結果、人々が享受することができる物の質と量を飛躍的に改善したことができたがゆえであった。意味をはっきり固定するためにこれを「産業資本主義社会」と名づけておこう。




 物の生産のフィールドでチャンスをつかまえる「産業資本主義社会」には市場の存在が前提になる。すなわち、労働市場、生産手段(原材料、設備)の市場、そして生産物販売市場の存在である。

 そして、ここで市場というとき、単に物理的あるいは制度的に市場が存在するというだけでは不十分である。すなわち、「一定の価格安定」が市場において保証されていることが「産業資本主義社会」にとって絶対的条件である。

 労賃や原材料価格や製品価格が2倍、3倍あるいは2分の1、3分の1というようなレベルで不規則に変動する市場では、計画的な物の生産が不可能であり、そもそもチャンスを認識することが不可能であることは容易に推測できるであろう。




 さて、今日の資本主義においては、前回報告のアラブ・オイルマネー、それ以前のもとしては第2次大戦後のヨーロッパ復興のために投じられたマーシャルプラン実行のためのマネー、衰退しつつある先進国の消費水準を維持するために世界に散布されたマネー(オイルマネーはこの種のマネーの「はしり」だ)、先進国産業の生き残りのための金融緩和により供給されるマネー等が累積してジャブジャブの状態になっている。
そのジャブジャブのマネーは物の生産のフィールドでのチャンスの発見に失敗している。
 そのため、ジャブジャブのマネーは物の生産とは関係なく、価格差、金利差、それをもとにした派生金融商品(デリバティブ)の世界に投入されており、短期的判断によってマネーは極めて激しく動いている。




 これが「産業資本主義社会」と共存できるあるいは関係のないものであるならば問題はない。しかしながらその規模があまりにも巨大となっている(世界貿易額の数十倍、数百倍という規模)。その動きが極めて激しくなっている。このため、このマネーが「産業資本主義社会」存立の前提たる「一定の価格安定が期待できる市場」の基盤を破壊しているのである。

 このマネーは「産業資本主義社会」と共存できるものではない。相対立するものである。

 しかし、一企業、一経営者、一個人の中に相対立する2つの要素が併存している。物作りで稼ごうとする生産部門と資金運用で稼ごうとする財務部門の存在がその象徴である。2つの要素の深刻な矛盾は十分に自覚されていない。(せいぜい生産系人脈と財務系人脈の相剋といった社内人事レベルだ。)

 国家レベルでもこの本質的な対立に如何なるスタンスをとるかについて腰が座っていない。アベノミクスをこの観点から評価しようとしても如何なるスタンスか判然とはしない。そもそも考えているとは思えない。

 このまま事態を放置すれば「産業資本主義社会」の黄昏は必至と言わなければならない。その次に来るであろう社会がどんな社会か予測しがたいが、これまでの社会と区別するために「カジノ」などという形容にとどめずに、「資本主義」という言葉に代わる名称が必要だと思う。事態はこれくらいの重大な歴史性をもつものである。