2013年7月1日

 自民党憲法草案第13条では「全て国民は、人として尊重される。」とされている。これは現行憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。」の「個人」を「人」に改めたものである。「個人」を「人」に改める意味はどこにあるのか、一読しただけでは判断できない。「個人」を「人」に改めるについては、何かを付け加えるか、何かを取り去るかの意図・目的があるはずである。これを考えてみたい。

 「個人」という言葉は「人」に「個」が付け加えられているのだから、「個人」という概念は「人」よりも限定された概念である。それでは「人」という概念から「個人」という概念によって排除されている要素は如何なるものであろうか。
 そのためには「個」の反対概念を想起すればよい。「個」の反対概念は「群れ」「集団」「社会」といったものである。すなわち、「個人」ということで「人」という概念から排除されている要素、「個人」を「人」と改めることによって付け加わってくる要素とは、人間の「『群れ』『集団』『社会』の一員」という要素である。
 したがって、「個人として尊重される」と「人として尊重される」とでは「人として尊重される」ほうに条件が付されているということになる。
 端的に言えば、自民党草案が言わんとすることは「『群れ』『集団』『社会』の一員であってはじめて尊重に値する。」「尊重されるには『群れ』『集団』『社会』の一員でなければならない。」「『群れ』『集団』『社会』の一員としての要素に欠ける個人は尊重されない。」ということだ。


 このような精神は草案前文における「自由と規律を重んじ」という「規律」の挿入、前回報告した「国旗、国歌の尊重義務」(第3条第2項)、集会、結社、言論、出版等表現の自由に対する制約「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動並びに結社の禁止」(第21条第2項)という文脈と平仄が合っている。

 このような一貫性は、自民党の秩序重視という根深い体質のしからしむるところと判断するべきであろう。

 さて、自民党も近代憲法の根本をなす「基本的人権」を憲法草案から排除するわけにはいかず、前文第3パラで「日本国民は、……基本的人権を尊重するとともに……」という文言を採り入れている。
 人権の制約を現状以上に加えつつ、「基本的人権の尊重」を採り入れるという矛盾した態度が見られるのだ。
 
 現行憲法でも 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、〈公共の福祉に反しないかぎり、〉立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(第13条)とされている。「公共の福祉に反しないかぎり」という制約が設けられているのである。

 筆者の見解ではここに規定されている国民の幸福追求権が最大限に発揮されることを保証することこそ憲法制定の基本目的である。幸福追求権は制約を免れないが、その制約は必要最小限に抑制されなければならない。そのことを示すために憲法前文に幸福追求権の最大限の発揮を可能にさせることが憲法制定の基本目的であることが掲げられなければならない。個人個人の幸福追求権のためには国民は一定の譲歩を受容する態度が必要である、幸福追求権に対する制約はやむをえざる場合に限るものであるということが理解されるように憲法に表現されなければならない。そういう意味では現行憲法の制約の書き方は不十分であると考えるのである。

 自民党草案では第13条において幸福追求権の制約として、現行憲法の「公共の福祉に反しないかぎり」を「公益及び公の秩序に反しない限り」と改めている。幸福追求権のためには譲歩を必要とすること、やむをえざる場合のみに制約が許されること、ここにはこういった姿勢は微塵も見られない。現行憲法以上に「公」が「我こそ国民の権利に優先されるべし」と堂々と大手を振って歩いている。

 草案前文に掲げられた「基本的人権の尊重」にまったく反する精神である。

 草案におけるこの矛盾の原因がいずこにあるか、もはや言うまでもなかろう。