2013年6月27日
自民党憲法草案には山ほど問題がある。折に触れて今後その問題は追及していきたい。今回は憲法前文における基本的問題を指摘しておく。
言うまでもなく、憲法前文は憲法全体の性格を規定するものであり、憲法各条の立法の基礎をなすものである。したがってまた、憲法各条の問題はここに象徴的に代表される。
自民党憲法草案の前文は5つのパラグラフからなる300字弱のものである。その短い文章のなかに幾多の問題をはらんでいるが、今回の指摘はその基本的問題である。
それは、「憲法制定による受益者は誰か、またしたがって日本国家形成による受益者は誰か」という点にある。それはさらに、「憲法制定の目的は何か、日本の国家としての目的は何か」とも言い換えられる。
この点について自民党草案では前文最後の第5パラグラフに書かれている。
すなわち、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」というものである。「子孫への継承」ということである。
一つの考え方としてありうる考え方ではある。しかし、この考え方では明らかに「現在の国民」が排除されている。
この視点から現行憲法前文をながめてみる。現行憲法前文には「われらとわれらの子孫のために……この憲法を確定する」(第1パラ)、
「そもそも国政は、……その福利は国民がこれを享受する。」(第1パラ)、「日本国民は、……われらの安全と生存を保持しようと決意した。」(第2パラ)、そして日本国民だけが対象ではないが、「全世界の国民が、……平和のうちに生存する権利を有する……」(第3パラ)とある。
自民党草案では明らかに現行憲法と比べて「現在の国民」、現行憲法でいう「われわれ」が、対象外になっている。
現在の「われわれ」などというものは、「良き伝統」(=過去)に比べれば、また「子孫」(=未来)に比べれば、価値なき存在だ、あるいは過去と未来に支えられてこそ現在のわれわれの価値がある、という考え方は一つの考え方ではある。「われわれ」の価値がいずこにあるかというのは哲学上の大問題であり、それを過去と未来に求めるのも一つの道である。全面的に否定し去ることができるものではない。
しかしながら、この考え方は、「われわれ」の価値を「他」に求め、「われわれ」それ自体の価値を説きえないという考え方である。そしてそれは「過去の『われわれ』」も「未来の『われわれ』」もまた論理上価値なき存在であることからすれば、ある種のシニシズムであり、また逆にある種のオプチミズムでもある。
すなわち、この考え方は「時間の継続」「伝統」「歴史」といった抽象的概念に価値の根源を求めるものである。
突き詰めれば、「われわれ」はそれらの抽象的概念のための手段とする考え方である。
裏に反ヒューマニズムが潜んでいる考え方である。
ヒューマニズムの正当性、これが果たして説明できるものかどうかという問題はある。それにチャレンジする意図をもつならば、それはそれで国民的大議論をする意義は十分にあると考える。
しかしながら、その覚悟もなく憲法前文に反ヒューマニズム的考え方が盛り込まれてしまうというのはいかにもいただけない。
決してそれが正しいというわけではないが、自然な、現在の「われわれ」・国民の感情にそぐわないものと言わざるをえない。