2013年6月19日

 民主主義は多数決だ、というようなことが言われる。間違っているわけではない。しかし、なぜ多数決がいいのだ?そこにはある社会観と人間観が前提とされている。その社会観・人間観から民主主義の多数決原則は理解されなければならない。
 社会を構成しているのは「自由な個人」である。現実の人間は、利害関係、権力関係、特定の宗教、特定のイデオロギーなどに束縛されている。しかし、社会の運営に参画するに当たっては、すなわち政治の世界での振る舞いにおいては、これらの束縛要因から解放され、自由な判断をすることができる。このことをもって「自由な個人」という。「自由な個人」から社会が構成されているがゆえに相互に対話を繰り返すことによって共通の理解に達することができる。そこに一定の合理性を期待することができる。これが民主主義が前提とする社会観・人間観である。
 だからこそ多数決に意味があるのであって、もし人々が特定の利害関係などに束縛されたまま多数決の意志決定に参加するとすれば、それは単なる勢力比較の投票を行うにすぎず、数の勝負にすぎず、その決定が理性的であり合理的である保証はまったくない。

 さて、プロ野球統一球問題である。ここには相互に対話を繰り返すことによって共通の理解に達することができるという民主主義の前提に対する全面的な不信と諦念がある。手続を無視してすべてを隠密裏に運ぼうとした背景はこの全面的な不信と諦念である。

 民主主義の前提が完全に成立していると考えるのは言うまでもなく現実を甘く見過ぎている。しかし、そのような不完全な現実のもとで民主主義の前提の成立の方向に向かって事態に対処していくのを民主主義的というのであって、民主主義の前提不成立を理由として民主主義的手続きを遵守しないのは反民主主義的である。
 プロ野球統一球問題は、社会全体に広がりつつある反民主主義的動き、反民主主義的心情の高まりの象徴として発生したのだ。

 「たかがボールのこと」でよかったのである。ことが政治レベルの話になってくると「たかが」などと言ってはいられない。理性的対話によって我々は共通理解を獲得することができるという信念は現実のヒューマニズムの基礎となっている。この信念を捨てることは人間が人間的に取り扱われることの支えを捨てることになる。これから憲法改正が政治の表舞台に登場することとなるが、このレベルになってくると基本が何よりも大事だ。「たかがボール」をきっかけとして我々は人類が達した叡智の重要性をあらためて噛みしめる必要がある。

 本件についてのそもそもの執筆意図はここにあったのである。「たかが」のレベルで問題を提起してくれたNPB事務局長にはお礼を言っておこう。