2013年6月11日

 「美人投票のアナロジー」とは、ケインズの株価形成に関する有名な説である。
 「どの女性がいちばん美人か」という投票ルールと「どの女性がいちばん美人としての票を得られるかを当てる」という投票ルールでは、ちがった投票結果となることは誰でも想像がつく。同様のことが株式市場においても生じるのであって、株式投資において「配当志向(長期的に株を保有し、毎年の配当を期待する)」で株式投資を行うか、「キャピタルゲイン志向(短期的売買差額狙い)」で株式投資を行うか、という投資行動の違いによって株価形成がちがってくる。そしてキャピタルゲイン志向の強い株式市場においては理論的に資源配分の効率性が保証されないことになるのだ。
 すなわち、資本主義市場経済による「パレート最適」(資源の最も効率的な配分と取り敢えず考えておいていいだろう。)は必ずしも期待しがたいというケインズの資本主義観を象徴するものであり、「美人投票のアナロジー」とは経済学において極めて重要な考え方であるということができる。
 しかしながら、昨今の株式市場の動向を見ていると、ケインズのアナロジーは事態の本質をとらえる上で甘かったと考えざるをえない。


 ケインズは株式市場を例えるに「美人投票」をもってきた。
 ここにはひとつの隠れた前提がある。
 すなわち、「どの女性がいちばん美人か」を投票ルールにするにしても、「どの女性がいちばん美人としての票を得られるかを当てる」という投票ルールにするにしても、投票者は一定の「美人」に対する判断能力があることが前提にされている。というより、「美人」をもってきたことによって、誰しもその世界の判定者たる資質をオートマティックにもってしまっているのだ。
 しかしながら、現在の経済問題の複雑性は、ある経済事象のもつ意味合い(=株価の上げ要因か下げ要因か)について一般投資家が事前に理解することをほとんど不可能にしている。
 具体的に例を上げるのは憚(はばか)られるが、各種の非美人的要素というものがある。それが美人投票においてどう評価されるか判定できないという状態は、美人投票の世界においては考えられない。しかし、現在の一般投資家は株式投資においてそのような状態に置かれているのだ。
 ケインズの想定は一定の判断能力がある人々の中で発生する出来事としてのものであった。しかし、今日の株式市場は、ケインズの想定を超えた無知蒙昧の人々から成る非合理的意志決定の場に成り下がっていると言わねばならない。


 敢えて適当なアナロジーを見出すとすれば、「八百長の仕組まれた競馬」ということになるだろう。
 八百長が恒常化しているような競馬があったとすれば、一般の競馬ファンは、馬の血統、これまでのレース実績、その日の調子、騎手との相性、そんな合理的要素が勝ち負けどっちに機能するのかまったく判からない、というかそういう要素は勝ち負けに関係がないと思うほかない。一般の競馬ファンは、このレースにどのような八百長が仕組まれているのかだけを考えて馬券を買うのだ。
 現在の株式市場はほぼこんな状態になっている。八百長とはいわないが、ヘッジファンドといった大口の投資家がどう行動するかということを読んで売買の判断をするのだ。こんなことで上下する株価に経済指標としての価値がどれだけあるというのだろうか?そんなことで左右される国会議員選挙っていったい何なのだろうか?