2013年2月27日
成田屋市川団十郎丈辞世の句が披露された。
「色は空 空は色との 時なき世へ」
般若心経「色即是空」への言及には、団十郎の生前の葛藤の激烈さが推測される。葛藤から解放される世界での冥福を祈るしかない。
さて、「色即是空」の「空」とは何であるか。最近これをゆるく解釈することによって「空」が受け容れ易くなるのではないかと考えている。
文字通り解釈すれば、「色即是空」は、目の前の茶碗、目の前の犬、隣のおじさん、それらの「色」(感覚対象)はみんな実在ではなく、人が頭の中に作り上げた「幻」(=「空」)でしかないということになる。
理屈の上でそのように理解することは可能だとしても、なかなか実感が許さない。茶碗はあるし、犬もおじさんもいる。その実感は否定しがたい。実際にそれらを「幻」だと実感するに至った人がいたのだろうかと疑問になる。
そこで、茶碗、犬、おじさんが「幻」なのではなく、茶碗、犬、おじさんという存在が要請してくるこちらの対応についてのメッセージ、このメッセージを「幻」(=「空」)と考えるという解釈をしたらどうかと考えるのである。
茶碗、犬、おじさんからの要求メッセージはあまり重くなさそうだが、人はこの世の諸々からの重たい要求メッセージに呻吟し、対応できない自分を責め苛み、否定的気分でこの世の生を送っている。しかし、この重たい要求メッセージすべては、実は「幻」であって、人が勝手に作り上げているものにすぎない。「色即是空」をこう理解するのである。
この世の秩序、この世の常識、この世が示してくる我々の行動指針、我々をしばりつけているこれらのメッセージは「幻」である。「汝、『幻』にとらわれることなかれ!」を「色即是空」の教えとするのである。
こうなると若くして十一代目を失い、成田屋の大看板を背負って葛藤した十二代目団十郎の人生は何だったのか?
般若心経の教えに反する、「幻」のために苦闘した無意味な人生だったのか?……ということになるが……
般若心経は「色即是空」で終わっていない。「色即是空」の次に「空即是色」と続けている。
「幻」は「幻」だが、それはやはり「色」だ、「色」というメッセージだ、というのである。「幻」であることを重々承知の上で、その「幻」から「色」を選ばざるをえないというのである。般若心経はいったん「幻」をぶち壊した後、そこから自分で「色」を選べという強い主体性の要求があるのである。
厳密な仏教徒は決してこのいい加減を許さないであろう。でも、我ら衆生はこれ以上の迷宮にはなかなか住みがたいのである。