2013年2月20日
柄谷行人著『哲学の起源』に次のように書かれている。
「 倫理とは個人がどう生きるかにかかわる。だが、共同体に内属する状態では、真の意味での個人は存在しない。そこから出たときに初めて、ひとは個人となる。その時初めて、『自己』が見出され、また『倫理』が問われるのである。」(P57)
誠にそのとおりであって、個人の成立、自己の発見、倫理の問題化によって、宗教はそれまでのものとその後のものでは大きく異なることになる。
そのことを説明する。
人間以外の動物は、本能によってその動物にとっての宇宙・環境世界像を与えられ、行動ルールも与えられている。行動ルールとは、まさに宇宙・環境世界への的確な対応方法のことである。動物には迷いはない。その本能にただ従うだけである。
人間は、本能を失った動物である。したがって、行動ルールの基礎となる宇宙・環境世界像を自分たちで獲得し、その獲得した宇宙・環境世界像に対応した行動ルールを見出して生きていかなければならない。
初期の宗教はこの宇宙・環境世界像を提供する役割を果たしてきた。その提供先は、すべての人間がそこで生産し、生活し、生きて、死ぬ場である共同体であった。(柄谷は「内属する」という言葉を使っている。)
「提供する」とは、単に提示するということではなく、権威あるものとして、信頼するに値するものとして、アンチ・人間ではなく親・人間のものであるとして提示するということである。
人間は、共同体の構成員であることによって、宗教(神)が共同体に提供した宇宙・環境世界像と行動ルールを得た。人間はそこで安息することができていた。
しかしながら、生産力の発展、格差の発生・拡大、都市の成立によって、このやさしき共同体は徐々に崩壊していく。
人間は、本能から見捨てられ、次に共同体からも見捨てられる存在となる。
柄谷のいう「個人」の登場、「自己」の発見が生じることによって、個人個人の行動ルールが要請される。その行動ルールの基礎となる宇宙・環境世界像が要請される。要請される個人個人の行動ルールとは、共同体での行動ルールが共同体の永続を究極目的とするようなものとは違って、個人ごとの存在理由、個人ごとの存在の正当性を保証するものでなければならない。個人はそれを得てはじめて安息できる。
この個人からの要請に対応するのが、共同体時代とは異なる宗教である。宗教は共同体の永続(比較的に物質的)を保証する宗教から個人の救済(比較的に精神的)を目的とする宗教に変質することになった。
現代世界で、実際のところは、人々の共同体への『内属』についての意識は千差万別である。自分が共同体に属していることに疑問をもたぬ人間もいるし、いささかの共同性も信じない人間もいる。その状況に応じて宗教の対応もまた様々であり、旧い体質が濃厚なものもあれば、完全に新しい事態に対応する宗教もある。
しかしながら、大きな傾向としては、共同体の崩壊は必至であり、個人の共同体への依存は断念されざるをえない。
平安時代以降の日本仏教の様々な変革、キリスト教における宗教改革は、このような傾向への端的な対応であると考えられる。
そして、ますます進行する共同体崩壊、共同体依存断念は、人々のこのような宗教への需要をひたすら強めていくとになると考えられる。