2013年2月2日

 体罰否定論者は、往々にして、体罰が効果的、効率的であるということも否定しようとする。

 そのことについて体罰肯定論者と論争することは、体罰否定論者の否定の純粋性を示すものであるかもしれないが、有害無益、大いなる無駄である。

 冷厳な事実として体罰による成果というものはある。その成果を経験した者は多数に上っており、その人々の実感を否定することは不可能である。

 それにもかかわらず体罰の効果、効率を否定する立場にこだわるのは、体罰否定の原理主義であり、決して勝利を得られないという意味で敗北主義で、自己満足の論であるにすぎない。

 手段というレベルで体罰を否定するのではなく、目的のレベルで体罰否定論が展開されなければならないと思う。

 すなわち、「その目的は敢えて体罰をしてまで達成されなければならない目的なのか?」というかたちで問いを設定し、「体罰をしてまで達成しなければならない目的ではない。」という結論に導くことこそ体罰否定論の論理でなければならない。

 「体罰をしてまでオリンピックで金メダルを取らなければならないのか?」「体罰をしてまでインターハイで優勝しなければならないのか?」等々。

 言うまでもなく、これは体罰全面否定論ではない。目的によっては体罰を肯定することもある論である。しかし、これによって体罰肯定論者との無益な水掛け論を避けることができる。

 日本が侵略を受けた場合、おじけづいて戦線を離脱しようとする兵士は体罰を与えてでも戦線に投入しなければならない。

このような特別なケースに体罰肯定論者に譲るところがあるとしても、広範な分野で体罰否定論者は肯定論者に対して優位に立てるであろう。

 体罰とは人間を機械のように従順な「もの」に化してしまう手段である。

 サーカスの猛獣に対するようにムチを振るって人間の主体性を奪ってしまう技術である。

 長い歴史の中でその効果、効率は否定しがたく、またその人格破壊作用も否定しがたい。

 敢えてそのような体罰を行使することは、唯一、目的の緊急性・重大性によってのみ正当化されうる。

 論点をそこに設定すれば、肯定論と否定論がかみ合った議論をすることができるであろう。

 そのような議論の結果が得られてこそ、社会的合意に基づく体罰の抑制が実現される。

 

体罰否定論者はその原理主義的主張を引っ込めてもらいたい。

 迎合的に原理主義的立場に立っている感のあるジャーナリズムは議論を適切に導いてもらいたい。