2013年1月31日
まず、結論。
本問題のA級戦犯は中途半端な時期を退職金カット適用時期とした条例案作成当局である。
その条例案の問題に気がつかなかった教育担当部局もまた、気がつく機会がどの程度あったかによって罪の程度は異なるが、条例案作成当局に準ずる責任がある。
教育者としての義務感、倫理感に欠ける等々の非難を受けた教職員は欠陥条例の犠牲者であり、欠陥条例の被害者である。
また、欠陥条例のもと、学期途中での退職という誰も望まない悲劇を回避する策を講じなかった教育担当部局は、この点において責任A級である。
条例案についても、その後の善後策についても、適切な措置を講じて問題の発生を防いだ県は実際に存在する。
このことからして問題を発生させた県担当部局が重大な過失を犯していることは明瞭である。
この重大過失を棚上げにして早期退職の教職員に道徳的非難を浴びせるなどとは言語道断の卑劣漢と言わなければならない。
人間とは悲しい存在である。
人間性といわれるような、常識的、穏やかなものがア・プリオリに(先験的に)存在するわけではない。
人間の中には、神性から獣性までが、マザー・テレサ的側面から冷血殺人鬼的側面までが、潜在している。
そのうちのどの部分が発現することになるかは、個人差はあるものの、状況によって決定される。
その否定的、消極的側面を出さずに済むように、できるだけ出さずに済むようにするのが、人間社会の運営というものである。
人間は卑しくすれば際限なく卑しくなる。残酷にすれば際限なく残酷になる。劣等化に底はない。
それをやめようというのが人間社会である。
150万円のためにプライドを捨てるというのは、プライドを捨てた人間が悪いのではない。
卑しき選択を余儀なくさせた制度設計者が悪いのだ。
戦争が悪いのは、人間を最も獣的存在に追い込むからこそ悪いのだ。厭うべき存在の極限に人間を追いこむから悪いのだ。
人間として子を産んだ母親に対して、その子を非人間化したことの国家としての謝罪が靖国神社の本質のはずだ。
人間とは悲しい存在である。高潔、勇敢、高き志しの人間が、望まずして、容易に、臆病で、卑劣で、疑い深く、嫉妬深く、冷酷な存在に堕してしまう。
このような人間存在の悲しさに対する相互憐憫がヒューマニズムの基礎になっているはずだ。
相互憐憫のひとかけらもなくして、すなわちヒューマニズム精神に欠けていて、欠陥条例の責任を回避し、居直る人たち、彼らに怒りがおさまらない。
とはいえ、往々にして、悪意がなくても、怠惰、注意散漫によって他者を追い込んでしまうものである。
自戒、また避けがたいところである。