2013年1月24日
体罰問題はむなしい。
事件が起きて世間がひととおり騒ぎ、時間がたつといつのまにか忘れ去られる。
体罰は存続し、氷山の一角の極端ケースが露呈し、また世間が騒ぐ。
その繰り返しである。
大阪・桜宮高校の事件もその例に漏れない。
原因は、根強い体罰肯定論に対して体罰否定論が正面からの議論をしていないことにある。
極端ケースの非人道性によりかかって世間の賛同を得、それをもってよしとして本質的議論をしない。
それが体罰の存続を許し、犠牲者は絶えることがない。
直接の加害者は体罰を加えた人間であるが、体罰問題の本質的議論をしない社会全体に責任がある。
体罰肯定論の理論構成は大してむずかしいものではない。
「ある目的のために、自己を抑制して、与えられる指示、統制に従うことができる人格を育成することは必要とされている。」
「時間的制約のある中で、そのような人格を育成するために、体罰は有効であり、効率的である。」
目的の正当性と効率性が体罰肯定論の2本柱である。
したがって、体罰肯定論を否定するにはこの2本柱を否定すればよい。
仮に、体罰否定論者がこの2本柱を肯定しているならば、その体罰否定論は絶対的体罰否定論ではなく、部分的体罰否定論であり、体罰問題を「程度問題」とするものである。
曰く、「『教育』であることを忘れた体罰は許せない。」「体罰を加えるものは自己を失っている。」「時間をかけて、納得させて……」「ほかの方法があるはずだ」………
これらの言い方は、あらためて指摘するまでもなく、体罰肯定の2本柱を部分的に肯定している。
これでは体罰肯定論には勝てないのであり、体罰肯定論を生き残らせ、体罰の永遠化を許す。
気づいている方もおられよう。
2本柱の第1の柱は、資本主義経済が成立するために必要な近代的労働者がもっていなければならない資質である。
このような資質のある労働者が形成されたからこそ、資本主義は成立した。
今、続々と発展途上国が経済成長を成し遂げているのは、そのような労働者が発展途上国で形成されたからである。
すなわち、2本柱のうちの第1の柱を否定することは、資本主義の否定ということである。
2本柱の第2の柱は、時間的制約の認識と相対的効率性の判断の問題である。
時間的余裕などというものがなく、効率性の追求が厳しく問われる状態、その典型例が戦争である。
したがって、兵士を作るために体罰は大いに活用された。
帝国陸軍しかり、ベトナム参戦の米軍しかりである。
第2の柱に対していかなる立場をとるか、それは現代社会の弱肉強食状態をどのように認識しているかにかかわる。
体罰否定論者は肯定論者から逼迫度の認識について、議論をふっかけられる。
以上のような問題意識のなかで、体罰否定論はゆるぎない体罰否定論を確立する覚悟を持たなければならない。
H氏は高校生の自殺という極端ケースを前にして体罰否定論に転じたようだが、極端ケースのみから形成される体罰否定論はもろく、弱い。