2013年1月10日
宮廷などで発表された貴人のものなら理解できるが、「読み人知らず」「防人の歌」「東歌」など、庶民の歌が万葉集に収録されているのが不思議だった。
現代とちがい、庶民の歌が発表されるような場があったとは思われないし、文字を書くということが庶民の間に一般化していたとも思えない。相聞歌はじめプライベートな内容の歌がなぜ編纂者(大伴家持らしい)の手に届いたのだろうか?
このような疑問にズバリと答える見解に出会うことができた。「折口信夫古典詩歌論集」(岩波文庫)の冒頭に掲げられた「叙景詩の発生」「短歌本質成立の時代」の中にそれがある。
折口は次のように述べている。
「……妹(いも)を偲ぶ歌も、実は純粋に自分を慰める為のものではなかった。奈良朝も末になって、おのれまず娯(たの)しむ歌は出来て来たが、それまでは皆、相手を予想して居た。それも一人の恋人を対象とした様な作物は、後世の惝怳家(しょうきょうか)(気抜けした人の意か?筆者)の空想によって、万葉集中に充満して居る様に思われてきたが、ほんとうは大抵、多人数の驚異をめどに据えた、叙事派の抒情詩であったのである。旅行中に家人を恋しがった歌の多くは、同行の旅人の共通の感情を唆(そそ)るところに立場があったのだ。其等(それら)の歌は、旅のうたげの席で謡われ、よく人々の涙を絞って、悲劇の中に、生の充実と、人情の普遍を感得して、寂しい歓びを味(あじわ)うのと似た慰みを感じさせれば、その歌は都の人々の口に愛誦せられる様になる。現に万葉集の羇旅(きりょ)歌や相聞(そうもん)の部に収めたもののある部分は、そう言った道筋を通って、世の記憶や、記録の上に、簡単ながらある生活の俤(おもかげ)を留めたのである。」(P24)
要するに、作者の固有名詞が付くような類の歌ではなく、1対1の関係でやり取りされるような類の歌ではなく、広く人々の間で、共通の感情が巧みに表わされたものとして、愛誦され、記憶されていたものであり、それゆえ採集可能だったということなのである。
それゆえ、
「つきつめた情熱に止むにやまれずあげた叫びと思われて来、或は又、万葉びとの素朴な、烈しく愛し、深く悲しむ事の出来た心の印鑰(オンテキ)(手の紋を印としたもの。筆者)として、伝習的に讃美の語を素人・くろうとから受けて来た歌の大方は、大抵は叙事派に属する謡い物で、誇張の多い表現に過ぎないのである。
東歌の如きも、又誰にも素朴な物という予期をもって向かわせる民謡(小唄)集でも、窮境に居て発した情熱と見えるのは、……性愛のやるせなさをまぎらわす為に、口ずさみ口ずさみした劇的構造のまじった空想歌に過ぎないものが多い。………………歌垣の庭の頓才問答・誇張表現・性欲からくる詭計・あげあしとり・底意以上のじゃれあいなどが、実感を超越して、一見激越した情熱にうたれる様な物を生み出させたのである。」(P36)
「万葉集の抒情詩すら、叙事詩脈の劇的表現・民謡式の誇張発想・儀礼上の伝襲的叙述法などから出来たと言う事情の忘れられた後代に、古代人の素朴という予断で、製作動機も醇化せられ、不当に高く評価せられたものであった。………恋愛発想の歌が贈答せられたからとて、恋仲の人々と即断することはできない例が多い。」(P68)
その結果、(この部分は、在原業平についての叙述部分ではあるが)
「平安宮廷の女房生活を、其等の人の歌詞から推して、紊(みだ)れきっていた様に言うのは間違いである。万葉さえそうであった。」(P69)
ということになる。
目からうろこである。
こうなると万葉の歌は、今日の演歌に近くなってくる。
愛誦され、共通感覚を感じさせられるが、歌われているような内容の実生活を送っているのは、わずかの人々に過ぎない。むしろ演歌が一部の人々を刺激、触発して実生活を演歌化している面がある。
我々の生活が演歌の歌詞から後代の人々によって推量されるとすれば、それはやっぱり誤解されたものと言わなければならない。