2012年12月7日
友達からの提供を受けて成瀬巳喜男監督(1905~1969)の映画「鶴八鶴次郎」(主演長谷川一夫、山田五十鈴)「あらくれ」(主演高峰秀子)を観ました。同監督の映画としては、その前に「浮雲」「晩菊」を観ています。
成瀬巳喜男監督は「やるせなきお」などと洒落られていて、その作品を観ると、なんとも「やるせない」感じにさせられるなどと言われています。
さて、「やるせない」とは「遣る瀬無い」と書きます。
「船頭が船を着けるべき浅瀬を見出しがたい」、すなわち、上陸することができずに流れに漂っているほかはない、という不安定な気分を表わしている言葉です。
とすると、「やるせない」という言葉は、20世紀初頭の作家ヘミングウエイなどの一群の芸術家に与えられた「lost generation」という言葉と共通するところがあると考えられます。
かつて指摘したことがあるのですが、「lost generation」を「失われた世代」と訳すのでは意味不明であり、「迷子の世代」と訳すのが適当だと思います。
頼るべき「父」、すなわち「理念」「正義」「共同体」「神」といったものをもたず、喪失感にさいなまれながら享楽的生活に日々を過ごすほかはない青年たち、すなわち迷子の状態の青年たちが「lost generation」です。
船を着けるべき浅瀬、安定を得られる上陸地点を見出しがたい不確かな気分、「やるせない」気分の青年たちということもできるでしょう。
日米の差、若干の時期の差はありますが、「やるせない」と「lost generation」とは、ともに、戦争、機械文明、都市化、商品経済化、故郷喪失といった状況がもたらす寂寥感、不安、倦怠といった時代的雰囲気を表わすものではないかと思われます。
そして、言うまでもなく、それは引き続き現代の我々の気分でもあります。