2012年11月29日

 895(ほろ酔い読書)で登場願った哲学者九鬼周造(1888~1941)が、自分が深い印象を受けた本を紹介するとして、随筆「書斎漫筆」で次のように書いていました。
「 私はまず、プラトンの『饗宴』を選び出そう。もう24、5年前になるであろう。まだ在学中であったかまたは大学を卒業したてのある知人が自殺をしたと聞いて、私は彼の生きているうちに『饗宴』を読ませたかったなどと思った。もし彼がこれを読んでいれば人生は生甲斐のあるものであることを確信して厭世自殺はしなかったかもしれないという風に考えたのであった。死ぬまで逼迫した深刻な意識に理解の足りない感じ方であったかもしれないが、ともかくも私は、当時それほどまでに『饗宴』を熱愛していた。」

 何がいったい自殺への思いをとどめさせることになるのだろう?早速『饗宴』を読んでみました。

 (『饗宴』の原題は「シュンポシオン(sumposion)」、「共に飲む」という意味で、「シンポジウム」の語源です。)

 プラトンがソクラテスに語らせるというかたちで展開しているのは、人間が至高の価値に到達できる存在であるという信頼、そういう人間の賛美です。
 人間が普遍的にもっているエロス(愛)とは「欠如」を補おうという志向であり、その志向はちょうど階段を上るように地上の美しき肉体を求めることから美しき精神を求めることに移行し、美しき学問から美そのものの本質の認識に至る、人間はそういう可能性をもった存在であるというのです。

 まことに結構なことなのですが、率直なところ、筆者にとっては、その楽観論を素直に受けとめることができませんでした。
 『饗宴』は「人生が生甲斐のあるものであることを確信」させるとされているのに、筆者がそれを素直に受けとめられない原因は何か?
 まず、九鬼がその友人において想定している自殺志向者と筆者が想定する自殺志向者がまったく異なっているからなのではないかと考えられます。

 また、『饗宴』が仏教でいえば小乗的であること、例えばソクラテス、プラトンのような智者のみが究極の境地にまで至り、救済されうるのに対し、その他大衆は置き去りにされてしまうこと、すなわち大乗的ではないこと、によるのではないかと考えられます。
 すなわち、『饗宴』はエリート教育論であって、庶民救済の道ではないと考えられるからだと思われます。

 九鬼の自殺した友人は、哲学志向の知的エリートであり、例えば明治時代の北村透谷、「巌頭之感」の藤村操というような人だったと想定されます。

 年間3万人といわれる現代日本の自殺者とは、基本的なスタンスがまったく異なっている人だったと思われるのです。
 哲学志向の知的エリートは自分の生甲斐を超越的世界・人間界外部に求めがちなものであり、その結果、「神は死んだ」時代に至って、「無意味」という冷厳な事実に直面せざるをえなくなっています。生甲斐を求めても、宇宙的・超自然的意味においては、それは得がたいという事実を突きつけられてしまっています。
 これに対し九鬼は、超越的世界ではなく、人間世界において、しかも価値を低めるようなことなく、絶対的真・善・美に近づくというような高尚なかたちで、生甲斐は得られるのではないか、そこに「無意味」からの解放があるのではないか、ということを『饗宴』の紹介によって主張したものと思われます。
 
 我田引水的ながら、このような九鬼の人間主義は、899(「効用」と「真理」)で孫引き的引用をしたフォイエルバッハ、人間の中にある「神性」が外部化したものが「神」であり、宗教であるとしたフォイエルバッハの人間主義に通ずるものがあるのではないかと思われます。
 偶然なのかもしれませんが、冒頭の引用に続く文章で九鬼は「カールスルーエとベルリンで見たフォイエルバッハの『プラトンの饗宴』という、画因の同じな、2つの美しい絵を思い出さずにはいられない。」と書いています。しかし、残念ながら、この画家フォイエルバッハは別のフォイエルバッハのようです。

 さて、哲学志向の知的エリートにとっては、その能力を発揮して知的努力を重ねていくことによって究極的に絶対的美・「美のイデア」に到達しうるというメッセージは、彼らを厭世から立ち直らせ、「生」の意欲を再びかきたてるものとなるかもしれません。
 しかしながら、そのメッセージは現代日本の年間3万人の問題とは大きくすれ違っていると感じざるをえません。
 年間3万人は、哲学的な意味での「無意味」の前で挫折しているのではなく、現実社会での自分の存在の「無意味」に打ちのめされた人たちだからです。

 哲学志向の知的エリートも、年間3万人の犠牲を出している現代日本の大衆も、共に「生」に肯定的に向かい合うことのできる道はないものでしょうか?

 『饗宴』の哲学が「欠如」から出発していること、近・現代人が直面し、苦悩しているのが「意味」の「欠如」であること、人間は「欠如」を認識し、かつ「欠如」を放置できない存在であること、人間の「神性」の根拠はそこにあること、「欠如」は人間の例外なき共有感覚であること、ここらあたりに何かヒントがありそうな気がしています。