2012年11月18日
ちくま学芸文庫の「最後の親鸞(吉本隆明)」を読みました。
とても興味深く読んだのですが、浅薄至極で恥ずかしながら2点ばかり異見を出しておこうと思います。
一つは、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な「悪人正機説」についてです。
この説があることによって、浄土に行くためには悪をなすほうがむしろいいのだと主張して、進んで悪をなす者たちが登場することとなったそうなのですが、それに対して親鸞ないし真宗教団はどのようにそれを否定したのか、ということについてです。
これに対して本書では次のように書かれています。
「そうだとすれば、すすんで悪をつくることは、かえって往生の正機を獲ることではないか。こういう疑惑は、のちに親鸞教の内部におこったが、親鸞は、すすんで悪をつくるところには、必然的に自力が働くがゆえに、本願他力の意趣にそむくものとして卻(しりぞ)けている。」(P63)
「親鸞もまた、称名念仏によって浄土へ参れるならば、かくべつの善をなすことはいらないのではないか、という坂東の念仏者の疑問に悩まされた。…………『歎異抄』によれば、強いて悪行をするのは〈自力〉の計らいが入りこむことだから、否定さるべきだ、と説いただけであった。」(P115)
修行や積善によって救済されようという自力の考え方を徹底的に否定し、ひたすら阿弥陀如来を信じて浄土を願うという他力本願の考え方からすると、救済を受けるために悪をなすという「計らい」は自力の発想が混入しているので間違っているというのです。
親鸞がそう言っているという本書の指摘ですから、その事実関係については反論のしようがないのですが、いかにも理屈で何とか否定したという、苦しまぎれの感をもたされる説明の仕方です。
「悪人正機説」の本来の主張は、すなわち、悪人本人の悪の自覚、そのいたたまれなさ、耐えがたさ、そのことから生じる強い自己否定、結果としての救済を受ける可能性の断念、よってもたらされる他力への完全なる依存、このように悪の自覚が他力本願にストレートにつながっていくところにあったはずであり、「すすんで悪をつくる」ことに対する否定は、この「悪人正機説」にある悪人本人の自己否定という契機を欠いているところに求められるべきなのではないでしょうか。
もう一つは、他の浄土思想、例えば一遍の時宗に比して親鸞に現世否定の傾向が弱く、むしろ往生への契機として現世肯定、現世受容の態度が強いという吉本隆明の指摘です。
例えば、本書では次のように書かれています。
「親鸞の思想にとって、この世が『五悪』に充ちていながら、『五悪』を肯定して生きるべきものとかんがえられていたとすれば、かれの和讃(仏教の教えを五七調でわかりやすく表現するもの。筆者注)に現世の〈はかなさ〉や〈あはれ〉や〈嫌悪〉が、強調してあらわれなかったのは当然である。」(P70)
「親鸞にとって、悲惨に充ちた現世像を描くことは、浄土の空想された荘厳美麗な風景と同じように、あまり細密な関心とならなかった。こういう現世的な悲惨な欲望のつきあわせや、卑小さが、親鸞には、穢悪すべきものではなく、すすんでひき受けるべき契機であり、この契機だけが浄土へ超出する根拠になりうるとみなされていたからである。」(P76)
「親鸞の和讃には、人間の生死の無常を詩的に色揚げするというモチーフはまったくといっていいほどあらわれなかった。その根柢にあるのは、現世の憂苦も愛憐も諍闘も、すすんで俗にしたがって受け入れ、そこに身をおくことが浄土への超出の契機だというかんがえであった。」(P90)
しかし、現世の悲惨さ、過酷さは浄土への道だから、それを嫌悪せず、受け入れるというのは、あまりにも心理的に不自然なことではないでしょうか。
浄土への憧れが極めて強烈な場合、そのようなことがありうるかとも考えられますが、本書にも指摘されていますが、親鸞が具体的に浄土を思い描き、夢みていたということはあまり認められないようなのです。
親鸞が現世の悲惨さ、過酷さを敢えてあまり強調せず、また浄土の素晴らしさを展開しようとしなかった原因は、親鸞に苦悩をもたらせるものが外部の世界であるよりは、自己自身の内部の問題だったからではないでしょうか。
「厭離穢土 欣求浄土」という浄土教の言葉がありますが、親鸞において「厭離」されていたのは「穢土」であるよりは「醜悪なる自己」であり、「欣求」されていたのは「浄土」であるよりは「自己からの解放」だったからではないでしょうか。すなわち「厭離醜我 欣求脱自」ということになるのではないでしょうか。