2012年11月13日
NHK教育テレビ土曜午後の番組「こころの時代」で、同様のメッセージをもつものが2週連続で放送されました。
11月3日の京大教授カール・ベッカー氏による「『理想の終焉』を求めて」、11月10日の医師岡部健氏による「いのち つながりのなかで(シリーズ私にとっての『3・11』)」がそれです。
ふたつとも、人々の素朴な信仰心、葬儀の慣習などが、死に直面する人々、死んでいく人々と残される人々に対し、安らかに死を受容する心を準備させ、死におののき、乱れる心を鎮める重要な役割を果たしていることを指摘するものでした。
在宅で死を迎え、死を看取るという穏やかな経過によってなされる死の受容、「お迎え」という過去の死者との出会いによる死の孤独感からの解放とこの世とあの世の距離感の取得、初七日、四十九日といった告別式後の行事による残された者の心の癒し、といったものがその例です。
このような意味で、信仰、宗教といったものが社会に大きな「効用」をもたらせていることは否定しがたいところであり、かつそのような「効用」があればこそ、永い人類の歴史の中で宗教が一貫して存続してきたのだと考えられます。
しかし、「効用」をもって宗教を信じることはできません。
宗教は、「効用」があるゆえではなく、「真理」を把握していること、その「真理」を人々に伝えるということをその存在理由とするものだからです。
「効用」があっても、それが「真理」に基かないものであるならば、当該宗教の教えは「虚偽」であり、「嘘も方便」のたぐいとなってしまいます。
自然科学が著しく発展し、宇宙自然の根本を次から次へと解明し、宗教の説くところをことごとく否定していく現代、宗教の存続の余地は果たしてあるのでしょうか?
このような問題意識に立ったとき、19世紀のドイツの思想家フォイエルバッハの考え方は、宗教というものをあらためて捉え直し、自然科学の成果とも両立しうる宗教の存続の可能性を呼ぶのではないかと考えられます。孫引き的引用ながら次に掲げます。(なお、フォイエルバッハは、マルクスにより批判的に継承された思想家であり、もっぱらマルクスとの関係という意味で有名だというのが実態のようです。)
「フォイエルバッハは、神の述語(性質)とされている諸々の規定、全知、全能、愛、等々は、人間(人類、類としての人間)の本質的規定性(述語)であるところのものが、倒錯視的に神に帰せられているものだということを指摘し、神の主体的本質は、実は人間にほかならないことを主張したのであった。神が自己を疎外して〈外部に形づくって(筆者)〉人間になる(その象徴がイエス・キリストの化肉)のではなく、人間が自己の類的本質を疎外して〈外部に形づくって(筆者)〉神を立てるのである。しかるに、フォイエルバッハによれば、人類はこれまで『神』が人間の類的本質の疎外態〈外部に形づくられた姿(筆者)〉であることを自覚せず、もっぱらこの『神』の前に拝跪してきた。今や、しかし、人間は神の秘密を知ることによって、対象的定在としての神を礼拝することなく、自己の本質における“神性”〈人間的制約の超越を願望しないではいられない人間の性質(筆者)〉に目覚め、この“神性”にふさわしい在り方をせねばならぬ、云々。」(廣松渉著「マルクス主義の地平」から)