2012年10月5日


 唐木英明氏は、食品安全問題、放射能問題について敏感な人々から激しく非難され、嫌われている科学者です(東大名誉教授、倉敷科学芸術大学学長、(財)食の安全安心財団理事長)。

 その唐木氏の講演、「放射能のリスクを考える」を聴く機会がありました。

 筆者は専門家ではありませんが、低線量放射線の影響については楽観論の立場に立っています。(456,463,464,474,481参照)

 その限りにおいては唐木氏の話は同調できるものであり、かつ新味のあるものではありませんでした。

 しかしながら、放射能の話の前置きとして語られた食品安全問題一般についての唐木氏の話には問題点があると感じざるを得ませんでした。

 そして、唐木氏の主張が必要以上に強い反発を起こしている原因となっているのは、その問題点によるのであるとも感じられたのでした。


 「安全」であるにもかかわらず、多くの消費者が「危険」と心配し、心配にもかかわらずその心配と矛盾する購買行動をとっていることを、唐木氏は指摘していました。

 その姿勢は端的に言って、そのような消費者はナンセンスだとする軽蔑の姿勢であり、消費者の素朴な心配に向き合おうという姿勢は感じられませんでした。

 唐木氏の消費者批判には問題がはらまれていると考えざるを得ません。

 唐木氏は、自分が主張している「安全」が、実は限定された意味での「安全」であるということを、意図の有無は不明ながら、無視し、問題としていません。

 すなわち、「安全」とは、「危険がないこと」あるいは「危険の程度が、甘受されている他の危険の程度に比べて、同等かそれ以下であること」です。

 ここで問題となるのは、「危険」とは何かということです。

 唐木氏の講演で明らかになったことは、唐木氏の言う「危険」とは、発生が確認され、因果関係が推認された現象に限られているということです。

 すなわち、急性症状の有無、がんをはじめ各種の病気の発生率の変化等によって確認される分野においてのみ「危険」が論じられているということです。

 例えば世代を超える遺伝的影響、病気とまでは認定されない不調、精神への否定的作用などは、唐木氏の「危険」の世界には登場してこないのです。

 

 それらは検出不能、因果関係立証不能であり、そのような不能状態にあるということは危険が無いのと同じである、という反論が予想されます。

 しかし、「知りえないのは危険が無いのと同じ」というのは、知りえないという事態へのひとつの態度の取り方にすぎず、他の態度、すなわち知りえないゆえにかえって不安という態度の取り方を否定する論理をもっていません。

 技術進歩、科学の発展により、知りえないという事態は容易に克服・脱却されます。

 その象徴は何と言ってもタバコの害でしょう。一時代前、タバコの害は全く問題にされませんでした。今日タバコの害を問題にすることは常識です。

 要するに検出不能、因果関係立証不能ということは「安全」を支える論拠にはいささかもなりえないのです。 


 唐木氏が低線量放射線のがん発生率増加寄与が極小であることを主張されることはその限りで正しいと筆者は思います。

 しかし、それはがん発生率という狭い分野で正しいのであって、それ以外の分野でいかなる影響をもたらすものであるか、それはわからないというのが正解なのです。

 その問題を放置して、まったく安全である、危険がないと強弁すれば、その主張は正しい部分まで含めて人々から受け入れられなくなるおそれがあります。唐木氏はその失敗を犯してしまっているのです。

 現代の人々の不安とは、検出可能な狭い範囲に限定されるものではなく、世代を超える遺伝等、上にあげたような幅広い分野での不安です。

 この不安をナンセンスとして片づけてしまうことは、無用の対立を社会に招くもので、放置しておくことはできません。

 

「安全」と「安心」という同じような言葉の並列が奇妙なこととして受け止められ、「安心」は「安全」の説得性のことだという矮小な解釈がなされます。

 しかし、「安心」と「安全」という言葉の奇妙な並列をもたらす真の背景は、狭い範囲内でしかない「安全」では不十分であり不安であるという人々の漠然とした、しかし根拠のないものではない生活感覚なのです。


 検出不能な危険、すなわち目に見えぬ危険にどう対応したらいいのか。

 科学サイドから「安全」だと強弁すれば済む話ではありません。

 それはサイエンスの世界にとどまる問題ではありません。

 人文系を含めた多面的な考究がなされるべき問題と考えられます。

 

(本論から外れて)

(1) 東大出身で、「電波少年」のケイコ先生から関西の浪花節の世界に飛び込んで活躍中の春野恵子さん、彼女の本名は唐木恵子さん、唐木英明氏のお嬢さんです。


(2) 食品安全問題の一つの背景をなす「世代を超える一族への責任感」ということを、局面は米軍上陸下の沖縄の戦場ではありますが、大城立裕氏の短編「亀甲墓」がみごとに描いています。