2012年9月26日
北方四島、尖閣、竹島をめぐる領土問題の直接の発生原因は、ポツダム宣言(1945年7月26日発出、1945年8月14日受諾通告)とサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)とのねじれ、不整合にあります。
サンフランシスコ講和条約の領土関係条項は第2章「領域」にある第2条であり、そこでは日本が放棄する地域がストレートに地名を上げられています。
例えば(a)項では「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」となっています。
サンフランシスコ講和条約では地名を上げるのみで日本の領域を決める上での考え方は示されていないのです。
一方、ポツダム宣言では、その第8項に領土に関する規定があり、そこでは「カイロ宣言の条項は履行せらるべく日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とされており、カイロ宣言(1943年12月1日公開)が引用されています。ポツダム宣言そのものには日本の領土を決定する考え方が掲げられていませんが、この引用されたカイロ宣言に日本の領土を決める考え方が述べられているのです。
すなわち、カイロ宣言では(1)1914年の第1次世界大戦の開始以後に日本が奪取し、または占領した太平洋におけるすべての島を日本から剥奪する、(2)満州、台湾及び澎湖島のような日本が中国人から奪ったすべての地域を中国に返還する、(3)日本国は、また、暴力及び強欲により日本が得た他の全ての地域から駆逐される(番号付けは筆者)、とされているのです。
日本によるポツダム宣言の受諾により、日本を含めて中国でも朝鮮でも、このポツダム宣言に沿った、ということはそこで引用されているカイロ宣言に示された考え方に沿って戦後処理がなされるという期待が、当然のことながら、生じました。
しかし、サンフランシスコ講和条約の規定は、カイロ宣言から期待されるものと一致していない内容を含んでいたのです。
生じた期待の正当性の問題はひとまずおくとして、その不一致点をあげれば次のとおりです。
まず、北方四島はカイロ宣言の3項目のいずれにも該当しません。(この考え方から日本共産党は、サンフランシスコ講和条約で北千島を含めて千島全体が放棄対象となっていることを不当としています。)
竹島は、サンフランシスコ講和条約の上で明らかに日本が放棄する地域に含まれていませんが、これはカイロ宣言から韓国が期待することに反するものでした。(検討中の段階で、条約の中に竹島を盛り込むよう韓国が要求した事実があります。)
尖閣もまたカイロ宣言の上記(2)に該当する余地をもったものでした。(竹島とちがって、尖閣諸島を条約に盛り込むように中国が要求したという事実はなかったようです。)
ポツダム宣言(実質的にはカイロ宣言)とサンフランシスコ講和条約との間に内容不一致があることについて、北方領土については不一致であることを明確に自覚しつつ、竹島、尖閣についてはどれだけの検討があったのか不明ながら、いずれにしてもこのように裁いたのは、いうまでもなくアメリカです。
このアメリカの裁きが尾を引いて今日の領土問題となっています。
そして、その裁きの半分(尖閣、竹島)については、それを国際世論のしからしむるところとして領土権の正当性の根拠とし、他の半分(北方四島)については、アメリカの裁きがあったことを無視してソ連の不法占拠とのみ捉えるという矛盾する立場をとることを日本は余儀なくされてきたのです。
これはやはり敗戦国の悲哀というものなのではないでしょうか。