2012年9月7日
1960年代半ば頃まで政治運動の世界に「市民」という言葉はなかったのではないでしょうか。
それまでは大衆の政治運動に対して「大衆」「勤労者」「労働者」「プロレタリア」「人民」といった言葉が使われていたと思います。
「労働者」「プロレタリア」という名称は、いうまでもなくマルクス主義的世界観を背景にしたものです。
これに対して「市民」という名称の背景には、マルクス主義のようなまとまりのある世界観があるとは考えられません。
「市民」という名称に対して指摘できることは、その名称に「消費者」「生活者」というニュアンスが強く出ていて、「生産者」というニュアンスが極めて微弱、あるいはまったくないということです。
社会はヒトの体になぞらえることができます。
ヒトの体は、呼吸器系、消化器系、循環器系、神経系、免疫系、筋肉骨格系といった様々な系に属する器官から構成されています。
ヒトの体は、これらの器官が順調に機能することによって維持されています。
そして、ある機能の障害に対する治療は、その機能の回復のみならず、体の全ての機能の維持に配慮しながら行われます。
それぞれの機能の維持がトレード・オフの関係、すなわちあちらを立てればこちらが立たずという関係にある場合があり、その場合には機能ごとのベストは断念して、一定程度の機能維持でやむを得ずという総合的な判断が行われます。
仮に呼吸器系を無視するような治療があったとすれば、言うまでもなく、それは医学の名に値しないものでしょう。
治療の判断に必要な総合性、全体性を欠いているからです。
社会問題の解決を図るべき政治の世界についても全く同じことが言えます。
「生産」という面を無視した政治があったとすれば、総合性・全体性を欠いて持続可能性を持っておらず、政治の名に値するものではありません。
しかし、現実には、「市民」という名称が象徴した「生産」の無視・軽視、そのような傾向を反映した政治、総合性・全体性を欠いた政治が展開されつつあります。
総合性・全体性を確保するような政治的枠組み、装置がないゆえに、様々な政策目標はトレード・オフの関係にあるにもかかわらず、トレード・オフの認識のもとで選択をするという合理的な政治が行われないでいます。
トレード・オフの制約が考慮されていない言いたい放題、言いっ放しが許容され、放置されています。
トレード・オフの認識があれば、議論を重ねることによって淘汰されるはずの主張が淘汰されることなく、人々を惑わせています。
今日の小党分立、政党内でのはなはだしい政策不一致という事態は、このような結果生じている現象です。
ポピュリズム(大衆迎合主義)を可能としている背景には、「生産」という基盤を持たない「市民」の浮遊があると考えられます。