2012年8月27日

先進国をA、中進国をB、後進国をCとし、それぞれを成長型(+)と衰退型(-)に分けると、日本は現在A(-)ということになると思います。
 今後を見通せば、労賃水準の高どまり、エネルギー価格の上昇、公租公課の高どまりないし上昇、技術開発の停滞等により早晩日本はB(-)、あるいはC(-)に至ると考えられます。
 この傾向を脱却しようと成長政策が試みられます。政策の実施を否定するわけではありませんが、その効果は衰退の緩和にとどまるものであり、事態を逆転することは諸要因の動きからして到底不可能です。

 C(-)、すなわち三等経済国という現実をいかに受けとめるか、いかに自暴自棄に陥らないようにするか、自己否定的にならずに肯定的になるか、このようなことについて考えておくことが、効果に乏しい成長政策を考えるよりも優先されるべきです。

 衰退経済において生活水準の格差の拡大がみられることは一般的現象ですが、経済的国境の消滅傾向、いわゆるグローバリズムの進展により(それは資産逃避、課税逃避、生活逃避等を可能とする)、格差拡大傾向はさらに顕著になります。
 格差拡大への反発が強まることになるでしょうが、格差拡大解消策は結局日本経済の衰退傾向を加速する結果をもたらすものであり、日本経済は負のスパイラルの道をたどることになります。

 格差を合理化する社会制度を人類ははるか昔に発明し、長期にわたり経験してきました。
 それは身分制度です。古代身分制、封建的身分制、いずれも格差を社会的に合理化する機能を持つものです。
 すなわち、身分によって消費水準を規制し、身分を超えた消費水準への欲望を抑制し、社会トータルとしての消費水準を抑制するというのが身分制です。
 
 平等を建前とする現代社会からは想像しにくいことですが、身分制社会においては欲望抑制が当たり前のことと理解されており(欲望抑制の自己内化)、人々は高い身分を羨望こそすれ、高い身分の生活水準を現実的な欲求の対象とはしていなかったというのが事実だと思われます。
 この場合、生活水準とは、日々の消費水準にとどまらず、乳児死亡率、妊婦死亡率、伝染病感染率、平均寿命等に結果する医療的水準、識字率、計算能力、情報アクセス能力等の文化・教育的水準を含んでいることを忘れてはなりません。
 これらを含めて人々は身分制による格差を受容していたのです。

もはや、格差社会化が不可避である以上、格差社会を穏やかに受容する文化を、ヒューマニズムの原則に反してはならないという現代的課題を踏まえつつ、再建、創造することが構想されなければなりません。
 政治的には許容されない表現ですが、その本質を表わすために敢えて名づければ、それは「ヒューマンな身分制」です。
 経済的格差は許容しつつ、経済的に低い状態であることを否定的に捉えず、むしろそれを積極的に肯定する、経済的には恵まれない身分の中の肯定的要素を見出してそれを賞揚する、そういう社会的仕組みの構築です。

 次回に続く。