2012年8月20日




武田泰淳の小説「森と湖のまつり」には次のような、いささかショッキングな記述があります。

 「アイヌの男性たちは、アイヌメノコを和人に奪られないようにと、ウタリの女たちに入れ墨をしましたね。厭がる女たちの意志を無視してまで、女たちに自分らの刻印をむりやり入れたわけでしょう、そんなにしてまで、メノコを奪られまいとするのは、たんなるアイヌ男のエゴイズム、利己心にすぎなかったんじゃないかな……」《あるシャモの発言》

 「……俺もスズキさんの家に住み込んで、女中みたいになって働いたよ。スズキさんは銅像までできた。偉い人だよ。そのうちスズキさんとこで、俺を養女にしたいという話が持ちあがってな。俺も、うれしかったさ。スズキさんの家の者をみんな、俺は好きだったから、その話を聴いて、俺のうちから呼びに来た。うちへ帰ると、すぐ刺青されたさ。刺青されれば、もうシャモはかまってくれなくなる。ずいぶんと泣いたもんだよ。よその者に部落の女を盗られたくは、なかったべさ」《あるアイヌの老婆の発言》




 アイヌの入墨(刺青)には体のいろいろな部分へのものがあるようですが、この場合は、くちびるのまわりを太く入れ墨して女性の容貌を大きく変えてしまうもの(率直に私の感覚を言えば醜くするもの)を言っていると思われます。



 アイヌの慣習に入墨があるのは承知していましたが、この記述のような目的のものという認識はなく、大いに驚いてさっそくパソコンで検索してアイヌの入墨についての記事を読んでみました。

 入墨の目的について、女を奪われないようにするためというような記事にお目にかかることはありませんでした。

 武田泰淳の小説上の記述は事実に反するのでしょうか、それともショ

ッキングな内容により事実が隠されているのでしょうか?




 私の推測は、過渡期の現象として武田泰淳指摘の事態があったということなのではないか、というものです。
 まずは、入墨の慣習があった。それは慣習としてアイヌの人たちに自

然なこととして受け入れられていた。しかし、和人の侵入により、和人男性とアイヌ女性とのペアが成立するようになり、和人男性が女性の入墨を嫌うため、入墨を忌避するアイヌ女性が現れてきた。このような女

性を許さないため、女たちの意志に反して入墨が行われるという事態が発生した。と、こういう推測です。




 いくつかの教訓がここにあると考えます。

1 非人道的事態の加害者(この場合アイヌ男性)の非人道性を単なる

「悪」と評価することは、事態の半面しか見ていないということ。

2 民族的怨恨の中でも「女」をめぐる怨恨は根が深く、しかも男の勝者敗者関係の中で生じるため(自分たちが「敗け男」であることを認めざるを得なくなることから)潜在しやすく、敵対感情の堅固な基盤を形成すること。(このようなことを忘れて、従軍慰安婦問題を公的権力の関与の有無だけで論ずることは問題の矮小化といわざるを得ません。)




 武田泰淳は、この小説の中でアイヌ女性に次のような発言をさせています。

 「 アイヌメノコがもしも、そろってシャモの男性を毛虫のように嫌

い抜いたとしたら、アイヌも今のように速く同化してしまいはしなかっ

たでしょうよ。アイヌ女がシャモ男を寄せつけて、色眼をつかうように

なった日から、アイヌの滅亡は始まったわけですわ。…………どんな人種だって、女たちの美の標準が大切なんですよ。女たちがもしも、ウタリ以外の異人の男に美の標準を置くようになったら、それでおしまいなんだよ。何もアイヌ女の問題ばかりじゃないですぞ。あんた方シャモの女にしても同じことよ。いくら民族独立とかアメリカ反対とかやっていても、シャモの女たちがアメリカ男にほれちまったら、それで何もかもおしまいですわよ。」

 「美の標準」、武田泰淳は女性にやさしくこのような言葉を使いました。「美の標準」の内容には「生活」「生活水準」「生活保障」もまた含まれていることは言うまでもありません。


 教訓の3は、(多くの)女が現実的であり、(多くの)男が観念的であるというすれ違いが非人道的事態を呼ぶことです。