2012年7月14日

 新幹線車内で声高に喋りまくる若い女性がいました。相手はやや年上と思われる職場の上司か同僚の男性でした。
 彼女は自分が職場内でいかに明るくふるまっているか、みんなの元気を引きだしているかといったことを、素晴らしい記憶力というほかはない様々なエピソードを駆使して語りまくるのでした。登場する人物にとってはその登場のさせられ方を不本意とするであろうような、そんな語り口で。

 聞こえてくる明るい声の中で、僕はだんだんと沈みこんでいきました。
 彼女がその明るさを演じ続けるのには無理がある、どこかの局面でその大きな反動があり、犠牲者を生むにちがいないと。
 その明るさは、彼女への期待への「迎合」として彼女が選んでいる明るさでしかなく、屈託が潜んでいる明るさであると。
 彼女の明るさは、人間の弱さに対して同情なく、弱さゆえに陥ってしまう不正義、そういうことへの想像力が欠けた強者の立場の明るさであり、言い募り、責め募り、いじめの自覚なき、いじめの加害者の道に通じるものであると。
 
 歯並びも美しい、期待される「健康優良児」、就職面接では高得点のタイプでしょう。しかし、その不自然さは病因となるものです。
 政治に利用され、会社に利用され、新興宗教に利用され、明るさの演技を続け、だんだん自分を見失っていきます。
 そうなれば、利用されるだけではなく、自分が自分として立っているために、それらにむしろ依存せざるをえなくなってしまいます。
 利用者側は打算で利用しているだけで、利用価値がなくなればお役御免です。他者にその役割を奪われまいと、彼女はしがみつくでしょう。
 表面の明るさと裏面の陰湿さが同居します。その時、彼女は自分のアイデンティティだと思っていた明るさが、自分のアイデンティティでなかったことに気づづかされるでしょう。

 「正義」を求められれば「不正義」を、「健康」を求められれば「不健康」を、「前進」を求められれば「後退」を、「美」を求められれば「醜」を、「真っ直ぐ」を求められれば「斜め」を、そういう対応の知恵を庶民は持っていたはずです。
 庶民がなぜ期待されるのか、なぜ甘言がささやかれるのか、そこに本能的疑いの感覚をもつところに庶民の庶民たる強さがあるはずです。
 庶民感覚の鈍化をやや心配をしている昨今です。