2012年6月25日

 今の世の中、「共同体」という言葉のイメージはプラスのイメージのようです。

 構成員であるという唯一の資格によって「共同体」の構成員はしかるべく処遇されます。
 それによる生活の安定とともに心の安定も得られます。
 「支え合い」とか「絆」とかの言葉が「共同体」に重ねられます。
 サステーナビリティが重視される社会、格差ではなく平等的な社会、競争ではなく協調が原理の社会、これが「共同体」です、ただし今イメージされるものとして。

 歴史的には、「共同体」は資本主義の前段階社会の構成要素です。
 今日までしぶとく生き残っているものの、一貫して資本主義の圧力により撤退作戦を余儀なくされてきています。
 反資本主義運動は、マルクスの想定と異なり、現実的には労働者階級に担われる以上に滅ぼされる共同体勢力によって担われてきました。

 「共同体」の牧歌的イメージは部分的なものではないでしょうか。
 「共同体」は内部に対してのみ優しいのではないでしょうか。
 「共同体」成立の契機には「敵」の存在があるのではないでしょうか。
 自衛を余儀なくさせる時代、人類が長くその状態に置かれたその時代が「共同体」を存続させてきたのではないでしょうか。

 「敵」の登場によって「共同体」ではない社会が「共同体」化することがありました。
 趣味の仲間から企業に至り、その最大規模が国家でした。

 「共同体」化するために「敵」をつくり上げることもされました。
 これも大小さまざまな組織の例があり、その最大規模のものは国家でした。

 かつて「神」は部族共同体、民族共同体の「神」でした。
 「神」は「共同体」から飛翔して『人類』の「神」に変身しました。
 『人類』は「人類」と一致するでしょうか。
 「人類」のほうの「人類」は「神」を追って「共同体」になり得るでしょうか。

 「人類」は神に見放されて、「無意味」という名の悪魔を共通の「敵」とすることになりました。
 「人類」とは「神」なきがゆえに成立することができる「共同体」です。