2012年6月25日
前回登場願ったフランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859~1941)は「快楽」と「歓喜」は違うと言っています。
原語のフランス語ではどのような単語が使われているのかわかりませんが、いずれにしろ2つの単語の微妙なニュアンスの違いを利用して、人間の「喜び」は大きく内容の異なる2つに分けられるということを言っているのです。
そして、「快楽」と「歓喜」を分け、「歓喜」を讃えるベルクソンの考え方に、西洋思想の東洋思想に対する大きな違いが象徴的に現れていると思われます。
ベルクソンは、「快楽」とは、生物に生命を維持させるために、自然が考案した技巧的な手段に過ぎないとして、「快楽」を「歓喜」の劣位においています。
そして、「歓喜」とは、生命の意義や人間の進むべき目標に到達したことを自然が人間に知らせる明確なしるしだと言っています。
「歓喜」は、生命が進んでゆく方向を指し示すものであり、生命が成功したこと、生命が地歩を占めたこと、生命が勝利を得たことを告げるものだと言っています。
そして、「生命の勝利」とは「創造」であり、「創造」が人間の「存在理由」であり、「創造」とは「自己による自己の創造であり、少しのものからたくさんのものを引きだして、世界の中にある豊かさにたえず何ものかを付け加える努力によって、人格を成長させることにほかなりません。」と言っています。
ここには、東洋思想的立場からは到底言い得ない言葉、口に出せば赤面せざるをえない人間肯定の積極的言葉が満ち満ちています。
すなわち、「意義」「進むべき目標」「成功」「勝利」「存在理由」「成長」等々。
これらの言葉は、東洋思想における「空」「無」「無意味」「虚」といった言葉の、まさに対極に位置する言葉群です。
この西洋と東洋の大きな違いをもたらせたものは何でしょうか。
宇宙、自然の変化の歴史及び人類の歴史に何らかの方向性を見いだすか、それとも単なる無秩序な変化と見るか、という宇宙観、自然観、歴史観の違いなのではないでしょうか。
したがって、今や、この違いを東洋と西洋の違いということは適当ではなくなっていると思われます。
前者の立場に立つか、後者の立場に立つか、それは世界の文化の混淆の中、現代では、東西いずれに所属するかで決まるのではなく、人それぞれの判断によることになっているのではないでしょうか。
そして、前者の宇宙観、自然観、歴史観に立つ場合、採られた方向性について何らかの「意志」の存在(それを「神」と名づけるか否かは別問題として)を見るのは自然な成り行きです。
その「意志」の方向性によって、あらゆる事どもが「優劣」「善悪」の秩序の中に体系づけられ、人々に行動の指針を提供しています。
しかし、この考え方は飛躍的発展を示す「科学」に対して劣勢です。「科学」は、諸事象への「意志」の介入を認めず、森羅万象を確率論的に解釈するものだからです。
一方、後者の宇宙観、自然観、歴史観に立つ場合、あらゆる価値体系は成立不可能でしょう。しかし、その結果、人々を価値体系がもたらす重い荷物から解放する役割を果たしています。
しかし、諸価値から超然としたその立場は、「生の躍動」の欠如、「存在理由」の欠乏が社会的病理を生んでいる状況の中で、対処を求める声の前に、語るべき言葉なく立ちつくす状態です。
ベルクソンは「快楽」「歓喜」を二つに分け、「歓喜」を優位におきました。しかし、この「喜び」の二分法の外に、人々に行動の指針を与え、人々を重い荷物から解放し、人々に生の躍動を感じさせ、人々に存在の無意味の不安を解消させる、そういう役割を果たす静かな「喜び」が、「科学」とも矛盾せず、「無意味」にも耐えられる静かな「喜び」が、人間には与えられていること(与えた主体を想定できるのか否かは別問題として)、そのことを知ることに、このどんづまりからの脱出法があるような気がしています。