2012年4月29日

 わざわざ書くこともないのですが、心がなかなかおさまらず、この政治的大事件の記念として雑想を残しておきたいと思います。

 東京地裁の裁判長は、陪席の二人も含めて、本人たちにそういう意図があったかどうかは別として、政治的にとても賢い判決を下したと考えられます。

 判決は、事実認定という要素と認定された事実の評価という二つの要素に分けられます。

 まず、3人の秘書による政治資金報告書虚偽記載、小沢に対する報告、小沢の了承という事実が認定されています。

 この事実に対して、司法的用語としての「共謀」には当たらないと評価して「無罪」との判決がなされています。

 司法の職務に当たる人間として、判決は司法的立場に徹して行われるべきことは当然であり、最終的当否は別として、この判決はその条件を充たしていると考えられます。

 しかしながら、「事実は事実によって語らしめよ」ということがあります。「事実がおのずから語る」ということがあります。

 その観点からすれば、言い換えれば司法的立場を離れて事実が語っている事実の評価からすれば、政治的、道義的、社会的に小沢は「有罪」ということです。

 司法的判断としての判決主文は「無罪」ですが、判決理由の部分では認定した事実によって「有罪」とされているのです。

 この判決に対する小沢のコメントは「裁判所の良識と公正さを示していただいたことに敬意を表する」というものです。

 小沢周辺のコメントも「この日を待っていた」「おめでとう」等々判決を歓迎する声のみが聞こえてきます。

 小沢周辺で判決を批判するものは、私が知る限りは皆無です。

 このことは、裁判所の事実認定、非司法的には「有罪」であるという判決に本人も含めて小沢周辺に異議はないということを意味します。

 仮に、裁判官が判決を書くにあたり、司法的判断に徹するのみならず、多くのメッセージを社会に発することを意図していたとすれば、この国の政治の中枢部分に日本語の文章が読めない老人とチルドレンたちがたくさんいることを知ってショックを受けているのではないでしょうか?

 裁判長は大善文男という名前ですが、大善をもって文を書いても世の中に伝わらないということこそ現代日本の病根中の病根ということができるのかもしれません。

 スポーツの世界で、野球にしろ相撲にしろサッカーにしろ、勝ち負けにのみこだわって試合内容を見ないミーハー的ファン、チルドレン的ファン、ギャンブル的ファンばかりになるとそのスポーツは深みがなくなって衰退してしまいます。