2012年4月3日

 陽水が東日本大震災、福島原発事故で中断した全国ツアーを再開するとの記事が、インタビューとも思われる体裁で掲載されました(朝日新聞3月2日夕刊)。

 陽水からの言及でしょうか、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というドイツ人哲学者アドルノの言葉が、その記事の中で、全国ツアー中断の背景として語られています。

 

 「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という認識は、常識的なものですが、逆に、「アウシュビッツ以後だからこそ、詩が要請される」という認識も成り立つと思われます。


 『詩』とは、『日常』に対立して創造され、『日常』に倦んだ人々に提供される、おそらく「同病相哀れむ」状態にある人間の精神の産物です。

 『日常』とは、平べったくて、無意味で、酷薄で、苦痛に充ちた、耐えがたき、展開なき生存のことです。

 そのような『日常』をひっくり返したり、捻じ曲げたり、磨いたり、ぼやかしたり、遠ざけたり、内部に潜り込んだりして、『日常』の姿をすっかり改変して、『日常』を『日常』でなくしてしまうことが『詩』の役割です。


 このような『詩』の役割からすれば、『日常』こそを希求する『アウシュビッツ』というとんでもない『非日常』に、『詩』の成立する余地はあり得ないということもできます。

 『ドラマなき日常』に『ドラマ』をもたらす役割をはたす『詩』に、『ドラマ』すぎる『ドラマ』である惨劇の舞台に出番がないのは当然とも思えます。


 しかし、『詩』は、要請されているのです。『書くことが野蛮』ではない詩が要請されているのです。


 その理由は、『アウシュビッツ』は、そして『アウシュビッツの記憶』は、耐えがたく、展開なく、おそろしいことに『日常化』するからです。

 そして、東日本大震災、福島原発事故及びその記憶は、直面している人々が日々実感しているはずのことですが、『アウシュビッツ』同様、『日常化』しています。


 陽水の全国ツアー再開が、その『日常化』に十分対抗しうる『詩』たりえるか、『日常化』に『日常化』の泥を重ねるだけものに終わるのか、陽水の力量が問われています。