2012年3月23日
 さっぽろ雪まつりで雪像が倒れてニュースになるまで初音ミクを知りませんでした。
 そして、このたび、NHKブックス「希望論~2010年代の文化と社会(宇野恒寛・濱野智史)」を読んで、初音ミクという存在の「ただならぬ意義」を知り、現代社会の行く末を考える上で放置できない「人」として取り上げることにした次第です。

 そのただならぬ意義は、「希望論」によれば、次のように語られています。
 「……ネット上での創作行為が巨大に花開いたことです。……そこではこれまで普通の消費者に過ぎなかった人たちが、次々と表現行為や創作行為を手がけるようになる。……「CGM(Consumer Generated Media:消費者生成メディア)」や「UGC(User Generated Contents:ユーザー生成コンテンツ)」などと言われたりもしました。」
 「……1980年代にトフラーがつくった言葉に「プロシューマー」というものがあって、……これは消費者(コンシューマー)でもあり生産者(プロデューサー)でもあるような人のあり方を指したものです。……インターネットの登場で、かつてトフラーが提唱したプロシューマーの時代が、いよいよ本格的に到来した。」
 「人々の無意識の消費活動が自動的にクリエイティヴィティを発揮する現象だということです。」
 「21世紀の情報社会における理想的な企業のあり方というのは、無数のプロシューマーたちを自社のいわば「守護神」として味方につけ、彼/彼女たちが生み出す情報・価値を束ねることで魅力的なビジネスを展開し、そこで得られた収益を「お布施」として還元していくというような、企業と消費者の関係を築くことにあるのではないか。」
 そして「希望論」は、初音ミクと並べて、(その方面には疎い私としてはそれが何なのかまったく知らないのですが)ニコニコ動画のMAD動画、「アイドル・マスター」、「機動戦士ガンダム」における「宇宙世紀」の架空年表などを上げ、それらを生み出す特別な能力が日本の特殊性にありとし、「……おそらく日本だからこそ可能になる。それはもしかしたら、かつて「日本型経営」の鑑(かがみ)とされた「トヨタ生産方式」にかわる、新たな日本ならではのコンテンツ産業の経営方式――「初音ミク生産方式」とでも言いましょうか――……」と語っているのです。

 さて、初音ミクにおける日本的特殊性の問題はさておき(それはそれでとても興味のある面白い問題だと思いますが)、「希望論」で提示されている消費者像、つまり消費者の立場の人間がその創作行為(それは当然、指示命令された行為ではなく、主体的な行為です)によって生産にかかわり、その収益を企業から得るという存在は、マルクスにおいて想定されている資本主義社会では考えられていない存在です。
 やや別の議論の場所ですが、「希望論」においては、「文化左翼的な人たちに欠けているのはそうした視点ですね。彼らは「土地や共同体の固有性がグローバル資本主義によって奪われていく」という話をするばかりで、その先を議論しない。何もない場所にどうやってもう一度濃いコミュニティを立ち上げるのかという話にいかないから、非常に後ろ向きの話に見えてしまう。」という発言があり、「希望論」では初音ミクをめぐるコミュニティの可能性、地域、場所に制約されないネット上でのコミュニティの可能性についても考えられていることが窺われます。
 マルクス主義では、資本主義社会はコミュニティ(共同体)の破壊によって成立したとし、社会主義社会でその破壊されたコミュニティが再生されるとしているのであり、資本主義社会のままで新たなるコミュニティ成立の可能性を説いている「希望論」の立場は、反マルクス主義的対立思想ということになるでしょう。

 それでは、マルクス主義的立場からは初音ミク現象はどう評価されることになるのでしょうか?
 資本主義は、その外部にある商品経済化していない社会を商品経済の中に取り込むことによって、生産物の新たなるマーケットを獲得し、またそこから新たなる労働力を調達して、その拡大を図ってきました。
 まずは国内の農村共同体を取り込み、次にはアジア、アフリカ、ラテンアメリカ等の未開発国を植民地化し、地理的拡大の限界に至ると方向を変えて、家庭内の商品経済化、すなわち家事労働の商品経済化を図ってきました。炊事、洗濯、掃除から子どものしつけ・教育まで商品経済化しているのが今日の事態です。
 そして、人々の創作活動、クリエイティブな活動の喜びもまた商品経済の対象にしたのが初音ミク現象である、非商品経済世界の商品経済化という資本主義の外部浸透の極限の姿が初音ミク現象である、とマルクス主義的立場からは初音ミク現象は評価されるでしょう。

 初音ミク現象はコミュニティとして結実しうるでしょうか?初音ミク現象についての評価については、「希望論」とマルクス主義的立場のどちらに軍配が上がるのでしょうか?
 「希望論」ではこういった設問自体を無意味化する議論が展開されています。
 もはや「希望論」では、コミュニティといっても、アイデンティティをもって自立する近代的個人像を前提にした社会的再生産メカニズムのことではないようです。一時的でもよい、他人との繋がりの機会といったものがコミュニティとされているようです。
 そういった意味では「希望論」は、現代社会で近代的個人として生きていくことの断念と捉えることもできますし、新しい人間のあり方の提起と捉えることもできるでしょう。
 初音ミク現象の評価は、結局、このどちらの立場をとるかによって決まってくるのだと思われます。

 江戸時代の文化を封建社会の締め付けの厳しさへの諦念が生み出した「あだ花」的な文化と否定的に捉えるか、醒めた、成熟した人間観、社会観に基づく洗練された文化と肯定的に捉えるか、という問題とパラレルな関係にあると思われます。