宗教はまず、ある人の神秘体験、天啓(「神の声を聞く」)、といった直接体験がきっかけとなります。
その体験で得られたことを本人が人々に直接伝えることもありますが、人々に伝えるためには、言葉としてあるいは文章としての整理が必要です。
このため、その点に能力をもつ人が伝達の役割を果たすことになります。
審神者(さにわ)といわれる人がそれであり、仏典、新約聖書は弟子たちの文章です。
コーランはマホメットが伝える神の言葉とされていて、これと異なるようです。
このような言葉が、直接体験に近く、生々しく、素朴である場合、往々にして、メッセージの一貫性に欠けていたり、矛盾があったりします。
しかし、信者の範囲が一定の狭い範囲、例えば部族的共同体にとどまっている状態では、そのようなことは問題とはされず、むしろ「神の権威」として受け止められたりします。
しかし、信者の範囲が拡大し、部族の範囲を超え、民族の範囲を超え、人間一般を対象とするようになると、メッセージの一貫性の欠如、矛盾の存在は放置することができなくなります。
「合理性」こそ人間の共通理解を導くものとする哲学が、宗教の前に立ちはだかることになります。
その役割を果たしたのは、具体的にはギリシア哲学であり、インド哲学でした。
キリスト教も、イスラム教も、ともに哲学の審問を受けなければならなかったのです。
その審問に対応した結果、非信者からは依然として非合理とはされるものの、宗教は「合理性」を身にまとうことになりました。
すなわち、発足当初の粗削りな姿から、宗教は洗練をされ、スマートな姿になったのです。
このことに対して、それは妥協だ、変質だ、本来の信仰が失われると批判する者があり、それが血で血を洗う事態にまで至った宗教論争であり、正統と異端の対立です。
西欧文明の根幹をなすキリスト教は、このような経過から、ギリシア哲学によって洗練されたキリスト教ということもできますし、ギリシア哲学とキリスト教が合成・融合したものだということもできると思われます。
そして、それが産み出した人類への最大のメッセージは、人間が神に最も近い、万物の霊長であり、その所以は人間が理性的存在であるからである、というメッセージです。
そのメッセージの成立が困難となったのが現代です。