2000年12月7日

 前回「歴史学という科学の立場からは後者(西尾幹二の立場でない

ほう)に軍配が上げられると思います。」と書いたところ、あたかもそれ

に答えるようなタイミングで、「諸君1月号」に西尾幹二の「『歴史』と『科

学』の相克」という小論が掲載されました。

 この小論を解剖しておきたいと思います。(今回は、少々長くなりま
す。)

 西尾は、「自然科学の方法が歴史を侵犯しているこの時代に、私は
まず科学からの歴史の防衛をとりあげ、本論で読者に訴えかける必
要にかられた。」と執筆動機を語り、この文章からも明らかなように、
「科学」から「歴史」が解放されるべきであると主張しています。

 西尾は、次のように近代科学を批判します。
 ガリレオ、デカルト以来の近代科学は、「自然の数学化」「自然の対
象化」「自然の死物化」であり、リアリティのある唯一の現実世界であ
る「われわれの日常的な生活世界」とは異なる世界を現実の世界で
あるかのように人々を思い込ませている。

 この指摘自体は、通説化している近代科学批判でもあり、半分は正
しいでしょう。
 確かに、自然と人間、そして近代科学を基礎とする諸技術と人間と
の相互作用について、近代科学は考慮不十分であったし、原理的に
取り扱いきれないともいえると思います。

 通説に依拠して近代科学を批判した西尾は、そして「生活世界」と
いう陣地に立てこもります。
 「生活世界……これこそ、われわれの肉体や人格がそのなかに置
かれ、現実に経験しているところの具体的で、疑問の余地もなく直
観的な世界である。色も匂いも味も音も手触りもある世界、人間
の生きているありのままの世界、科学によって骸骨の肋骨のよう
に描き出されていない、複雑で多様な生命の世界である。あの『人
間的あいまいさ』が一定の範囲で許されている世界といいかえても
よい。」
 「そして、『われわれの日常的な生活世界』の延長したものこそが、
くどいようだが、『歴史世界』なのである。」

 何か共感を覚えるような文章です。
 あなたの経験、あなたの直感、あなたの生きているありのまま、あ
いまいさがあってもそれでいいんですよ、そこで考えればいいんです
よ、と読者に訴えています。
 近代科学は人間的スケールの時間空間をはるかに超え、あるい
は逆に人間的スケールからすればはるかに微少な世界に突っ込ん
でいます。そのような科学あるいは科学技術に不安、不信の念を持
っている一般の人々に安心を与える文章です。
 しかし、この泣かせる文章は、きわめて危険だといわなければなり
ません。
 というのは、取り扱われている課題は、個人生活のことではなく、人
々が共有すべき歴史の真実とは何かということだからです。
あなたの経験、あなたの直感などでは、それぞれの経験、それぞれ
の直感などがぶつかりあって、人々の共通の歴史認識を培うことはで
きません。
 西尾は巧妙で、科学をやっつけることが当面の課題なので、科学を
やっつけたあとの人々の歴史の共通認識をいかにまとめていくのか
という問題にはまったく触れていないのです。
 大胆に言ってしまえば、西尾は、科学が提供する事実よりは西尾
の経験、西尾の直感による歴史認識のほうが、皆さんのサイズにあ
った歴史ですよと人々に売り込もうとしているのです。

 次のような文章で、西尾の衣の下の危険性がのぞいてきます。

 「日本の歴史をきめているのは、人種的起源ではない。起源がなん
であろうと、一万年余の縄文時代において、同一の自然風土のもとで、
同系列の言語文化、そしておそらく互いに相似た習俗や信仰形態を
少しずつ育ててきたという点にこそあるからである。それはDNA鑑定
がいくら進歩しても、決して与えることのできない知識に属している。」
 「『国民の歴史』(西尾の著作)が神話の価値を唱えているのは考古
学万能主義に懐疑的であるからだ。」

 西尾の文章を書き写していて、実に西尾は巧妙だと思います。
 日本が、単一民族、単一言語、単一文化の外見を呈している現状か
らすれば、1番目の文章は一見否定しにくい文章です。しかし、「少しず
つ育ててきた」という表現に、歴史認識を誤らせる種が潜んでいます。
 「少しずつ育ててきた」というのでは、まるで平和裡に和気藹々と単一
化してきたかのように思わされてしまいます。しかし、それは殺戮と闘争、
支配と服従の結果として実現したものであって、平和裡に和気藹々とい
う内容では歴史的事実に反します。
 2番目の文章の「神話の価値」は、歴史資料として誰でもが認めるとこ
ろです。だから「神話の価値を唱えている」といわれれば、それを否定し
ようがありません。考古学が万能かといわれれば、考古学者自体も既存
の知見に懐疑を持ちながら考古学を発展させようとしているのですから
万能とはいえないでしょう。
 このように否定しにくい文章を作って、実際は神話尊重、考古学否定
というメッセージを読者に与えるのです。その結果は、戦前の皇国史観
になりかねません。
 問題は、神話がどれだけ史実であるか・否かということであり、その解
明に考古学が重要な役割を持っているか・否かということであって、その
点になると西尾の主張は危ないのです。

 総括的に言えば、西尾の小論は、科学的には自分たちの歴史観に勝
ち目がないことを自覚し、読者の科学不信、科学不安という日常感覚に
依存して、自分たちの主張を貫こうとする、知的に不誠実な試みと断ぜ
ざるをえないのです。