2012年1月15日
素粒子に質量を与えるヒッグス粒子の発見間近というようなニュースを新聞で読んで、現代物理学の最先端に驚くというレベルとほぼ同じ全くの素人レベルで、哲学の現在がいったいどのような問題をどのように解こうとしているのかを、僕は知らない人間です。そのような僕でも、西欧起源の哲学に限界があり、その限界を克服するものとして東洋哲学の見直しがあるというような世間の雰囲気を、何となく感じてはいました。そのような僕が、次のような森有正氏の断言を読むと、ただただ驚き、その正否について云々することは、当然のことながら全く不可能ながら、紹介だけはさせてもらって、安易に世間の雰囲気などに踊らされないように、共に自らの戒めとしたいと考えるところです。(引用は、ちくま学芸文庫「森有正エッセー集成Ⅰ」の「流れのほとりにて(1957年7月)」P316~P317です。)
「 色々ある見当ちがいに共通している一つの点は、自分たちが文明の問題で、その中に置かれている、大きい矛盾に気がつかないでいるということである。第一に今日、文明は世界で唯一つになってしまった。東洋文明という甚だ曖昧な概念に積極的意味があるように思って、それと西欧文明とを綜合するなどという考えは、自己の無知の告白以外のものではない。」
「 古代文明の綜合者であったギリシアと、それに対立する唯一の文明原理であったヘブライズムとを千年以上かかって綜合した西欧文明は、いわゆる東洋文明と称されるものを、自己の中に含みうる可能性と強さとを自己の中に生み出した。重要なことは、その可能性が在るのは西欧の側にであって、いわゆる東洋の側にではないということ、そのことは決して見損なってはならない。」
「 我々は、本当に東洋のものを生かそうとすれば、どうしても西洋を経過しなければならない、ということである。しかもその西欧文明そのものが厖大な過去の伝統の上に立ち、容易に、その経過を許さない、という矛盾した現実である。」
「 ヨーロッパ文明の中に、ヨーロッパの習俗とは区別された普遍的原理をみとめ、それを学ぶことによって、日本人の我々も、我々の習俗を純化しつつ、ヨーロッパの高さに達しようとすること、これは明治以来の我が国の先覚者が辿った道であった。福沢諭吉、内村鑑三、夏目漱石、その他多くあげることができよう。僕はこの道が正しいかどうか知らない。ただ僕としては、それとは違った道を辿らざるをえない、ということをここで言っておこう。…………ただ誤解のないように言い添えておくと、それらの諸先輩の辿った道が間違っていた、というのでは毛頭ない。かれらは日本の運命を考えた。……しかし僕は自分の運命を考える。道が違ってくるのは当然である。ただしこれは、自分の国よりも、自分の方を大切にするということとは全く違うのである。この筋道の理解できない人は、はじめから、文化とか文明とかいうことについて間違えているのである。」