2001年3月1日

  前々回の「成人式」をめぐる通信で「儀式」が参加者の間の「秩序
の相互承認」という意味を持っていることをお伝えしましたが、「礼儀」
というのも同じような意味を持っています。
  親に対する「礼儀」、教師に対する「礼儀」、老人に対する「礼儀」、
そして美人に対する「礼儀」、いずれも「あなたの持っている権威を認
めます」というメッセージの発信です。

  したがって、その権威を否定するために戦略的に、意図的に「礼
儀」の態度をとらない場合、そのことを他者が批判することはできま
せん。権威を認めるか否定するかという戦いがあるのみです。

  また、権威の有無を判断できない場合には、取りあえず「礼儀」の
態度をとっておくというのが社会的知恵というものでしょう。「礼儀」の
態度をとらなければ権威を否定するというメッセージになってしまうか
らです。世の中のほとんどの「礼儀」はこの類でしょう。権威の有無を
判断できず、したがって自然な「礼儀」が生まれてこないため、「礼儀」
の形式如何が人々の間で話題になるのです。
( 美人に対する「礼儀」の形式が話題にならないのは、この場合
は実感に応じて形式がおのずと決まってくるということと、「礼儀」
の対象者に美人の自覚がない場合が案外多いからです。)

  そして、「礼儀」の形式を知らないのみならず、「礼儀」の対象者で
あるかどうかも判断できないがゆえに、「礼儀」の態度をとらないとい
うパターンがありますが、それは単なる「馬鹿」です。