2001年4月16日
前回の続きです。
千葉俊二という人は「味覚の親和力」という文章で次のようにも言っ
ています。
「このように保守的で他者に伝達不可能な味覚であればこそ、これ
を共有し得たときの一体感にはいっそう濃密なものがあるのだと思い
ます。」
「本書(「花は桜、魚は鯛」)で、たをりさんが描出した味覚の親和力
によって結ばれた谷崎ファミリーは、血縁でつながれた家族以上に濃
密で、どこかエロティックないわば味覚共同体というものを感じさせられ
ます。」
この指摘は、社会科学における「共同体」という概念に重要な示唆を
与えています。
すなわち、その示唆とは、小は男女一対の共同体から家族共同体、
村落共同体、大は民族共同体、国家共同体に至るまで、「共同体」の成
立には「他者に伝達不可能なもの」の共有が要件になるということです。
そして、「他者に伝達不可能なもの」について、千葉俊二は味覚の快
楽と同時に肉体の快楽をあげているのですが、共同体成立に必要な「
伝達不可能なもの」はおよそ何でもいいのであって、村落共同体、民族
共同体のレベルでは、「神話」(共同体成立の経緯及びその正統性、共
同体の根本原理、共同体の進む道を説く物語)の共有が、その役割を
果たしています。
また、伝達不可能性に立脚する「共同体」というものは、伝達不可能な
ものを共有しない他者を排除するという「排他性」……この場合は必ずし
も否定的ニュアンスで言っているのではありません……を必然的に身に
まとうことになるのです。
「神話」が失われ、「共同体」が崩壊している現代において、「神話」の
復活、「共同体」の再生が課題となっています。しかし、「新しい歴史教科
書をつくる会」がねらうようなオールドファッションの「神話」復活であって
はなりません。それは、伝達不可能なものを共有しない他者とは他民族
であると決め付ける民族対立史観に基づく物語です。
「共同体」は必然的に排他性を持つという危険性を十分に考慮に入れ
た上での、もっと開かれた、明るい「神話」の創造によって「共同体」を再
生することが是非とも必要であり、それは十分有り得ると思います。
「共同体」にとっての他者は、必ずしも人である必要はないはずですか
ら。