2001年4月23日

  NHK教育テレビ「シリーズ日本の宿題・学校」で茶髪の社会学者宮台
真司と文部科学省審議官寺脇研の対談が17日と18日の両日に渡って
放映されました。
  両者の主張は、予想に反して、ほぼ一致しています。過激とも思われ
る宮台の主張に役人寺脇が同意し、更に自分の言葉で敷延するという
二人三脚的対談に、正直なところ私は驚きました。

  私なりにこの対談のポイントを上げれば、次のとおりです。
すなわち、
(1)学校教育に現われている様々な問題現象、例えばいじめ、不登校、
校内暴力、学級崩壊等の根本的原因は「教育における動機付けの
失敗」にあるとしたこと
(2)「成熟社会」(宮台の言葉)においては一律の動機付けは不可能で
あり、個々人の試行錯誤が不可避であるとの認識を示したこと
(3)教育においてはその試行錯誤に耐えつつ自己決定をする能力を付
与することが何よりも(学力付与よりも)大事であるとしたこと
の3点です。

  「忠君愛国」も「アメリカ的生活様式へのキャッチアップ」も「いい高校、
いい大学、いい会社」も、もはや一律の動機付け(学習意欲の源)として
は成り立ち得ないという彼らの現状認識は、まったくそのとおりだと思い
ます。
  使う言葉は違いますが、「神話の喪失」「共同体の崩壊」ともつながる

認識であると思います。
  正しい状況認識に立った上での対策には期待が持てるでしょう。

  ただ、彼らに肯定的であるものの、二つの重要な問題を指摘せざるを
えません。
  一つは、しつけ、道徳、愛国心といった分野で一律が求められることに
対して彼らの見解が明らかにされなかったことです。その分野に話が及ん
だ時、彼らは二人三脚を続けられたのかは疑問です。
  二つは、動機付けを個々人の試行錯誤に委ねて、果たして動機付けが
得られるのかということです。私の言葉では「神話」「共同体」が登場するよ
うに、それはあくまでも社会的な課題であって、個々人に委ねるのは困難
であり、個々人にとって過酷なのではないかということです。
  かしこいがゆえに個人で「神話」を求めようとした悲劇の象徴は、酒鬼薔
薇聖斗のバモイドオキシンです。