2001年4月27日

  「身の丈サイズ人間観」、これは私の造語ですが、この人間観が
世の中をずいぶんと悪くし、またつまらなくしているのではないかと思
います。

  「身の丈サイズ人間観」とは、一方でマザー・テレサに象徴されるよ
うな「善」の方向において特別な人、一方で異常犯罪を引き起こすよう
な「悪」の方向において特別な人、これらの人を除けば、「普通の人間
」はみんな自分たちと同じような普通の欲望を持ち、同じような普通の
動機で行動しているに違いないと考える人間観です。

  この人間観では、「普通ではない人間行動」に接した時、それが「善」
であろうと「悪」であろうと、その行動が発生した理由を二つの説明のい
ずれかで説明することになります。
  すなわち、一つの説明は、「普通の人間」から除かれるべき特別な人
によってなされたものだという説明です。もう一つの説明は、その行動の
裏には実は「普通の人間」が持っている普通の欲望、動機が隠されてい
るのだという説明です。

  従って、ある善行は、「聖人」によって行われたもので、自分たちには
無理だということになるか、実際には強い名誉欲や反対給付の期待に
よってなされたものにすぎないというような説明になります。
  また、極端な悪行は、「悪魔」によって行われたものだということになる
か、幼児期のトラウマが云々といった心理学的な説明になります。

  このような説明は、テレビのゴシップ番組しかり、大衆週刊誌しかり、
また我々の他人の噂話しかりです。
  昔、明恵上人は、こんな安穏な修行をしていては、到底真智を得るこ
とはできないと、自分の耳を切り落としたそうで、ゴッホはその話に影響
されて同じように耳を切り落としたそうですが、これが現代の話であれば、
「身の丈サイズ人間観」に立っていると思われるマスコミがどのように報
道したかと考えざるをえません。

  「普通ではない人間行動」に対するこのような態度は、「普通の人間」
は「普通の人間」でいいのだという安心感を与える麻薬効果により、社
会に深く根づいてしまっているように思われます。

  その結果、「普通の人間」は「普通の人間」の身の丈サイズの人間で
しかありえず、本来可能性を有しているにもかかわらず、「普通の人間」
以外の存在となる可能性が封殺されてしまっています。
「人間というものは、まあ、こんなものだわな」という「身の丈サイズ人
間観」は、「崇高なる自己犠牲」「無償の愛」「偉大への志向」「超越への
接近」などへの扉を人々に閉ざしてしまっているのです。

  松尾芭蕉は、「笈の小文」の中で、花を見ても心を動かさない、紅葉を
見ても感動しない、そんなものは獣と同じだといっているそうですが、「身
の丈サイズ人間観」は、自分たちの卑小な安心感をうるために、人間行
動の花を花と認めず、紅葉を紅葉と認めようとしない態度を助長するも
のだということがいえるのではないでしょうか。