2001年6月12日
大阪の小学校襲撃事件に関する報道において、大きな衝撃を受けた
であろう子供たちへの「心のケア」対策の必要性の強調が目立ちます。
専門家による「心のケア」の必要性について、まったく異議はありませ
ん。
しかし、報道に流れている、また報道を受ける側にもあると思われる「
心のケア」をめぐる雰囲気には、懸念を感じています。
心的外傷症候群、PTSD、トラウマなどと呼ばれる精神障害における「
治療」とか「治癒」とは何かということです。
病気による肉体の一時的障害の場合、投薬、手術、静養などの「治療
」によって患者は元の健康体に復帰します。病気がなかった状態に戻る
わけです。それがこの場合の「治癒」です。
しかし、心的外傷とは「記憶」です。「記憶」を失わせることは可能でしょ
うが、失わせる「記憶」を選択することは現在の精神医学の技術では(幸
いに)不可能です。襲撃事件の記憶を失わせたら、その子供はその他の
記憶も同時に失ってしまうでしょう。
心的外傷における「治療」とは、心的外傷を抱えながら普通の社会生
活を送ることができる力が患者自身の内部に生まれることを助けること
であり、外見的に普通の社会生活を送れるようになれば、それが「治癒」
です。それは、肉体の恒久的傷害を受けた場合の「治療」「治癒」に近い
といえるでしょう。
子供たちは、肉体の恒久的傷害を受けたのと同様に、この襲撃事件
の記憶を一生抱えて生きていかなければなりません。
そして、それを精神の不健康な状態と考えるべきではありません。なぜ
なら、好ましい記憶も嫌悪すべき記憶もあわせて抱えていくのが、そもそ
も人間の精神というものだからです。
もし、嫌悪すべき記憶をまったく持たず、好ましい記憶ばかりしか持た
ない人間の社会があったとすれば、それは恐ろしく軽薄で、未熟で、鼻持
ちならない、いやな社会であるに違いありません。
「心のケア」報道に感じるのは、好ましい記憶だけの精神状態が「健康
な精神」だというような誤った考え方が底流にあるのではないかということ
です。
「健康な肉体」という概念はかろうじて定義可能かもしれませんが、そも
そも「健康な精神」という概念は定義不可能なのです。