2001年6月22日
日本農業に同情的であることを表わすために、次のように言う人がけ
っこういます。
「農業は知識集約型産業である。したがって過保護による生産性向上
の妨げがなければ、日本農業には未来がある。 もうかる農業は十分可
能である。その結果、日本の食糧自給率は高められるであろう。」
この考え方は、99.99%誤りです。
ある作物については、1農家当たり100倍の農地面積の外国農業経
営と競争しなければなりません。ある作物については、10分の1以下の
労賃の外国農業経営と競争しなければなりません。しかも、農業技術の
伝播に今や国境はまったくありません。
この条件を簡単に「知識集約産業」だから克服できるなどとするのは
無責任極まります。
町の八百屋は「ヤオハン」(倒産してしまいましたが)になる可能性を持
っている、町のオートバイ修理工場は「ホンダ」になる可能性を持っている
というのと同じです。
個別経営単位で考えれば、可能性がゼロではありませんが、産業全体
で考えれば、可能性はほぼゼロです。深刻なのは、この可能性がほぼゼ
ロの考え方に立って農業政策を講じるべきだという勢力があることです。
しかも、国際分業論に立ち、日本農業が結果として滅びてもかまわない
と考え、そうなるだろうと知りながら、この考え方を主張する不誠実な向き
があることです。
日本農業の究極的な存在理由は、もうかる、もうからないを存在理由の
指標とする市場経済の論理から導き出せるものではありません。
日本農業の存在理由については、深い議論が必要です。
しかし、可能性のない不誠実な考え方が打ち出されることによって、深い
議論が妨げられてしまいます。