2011年10月5日
人間が感知する様々の「もの、こと」は、本来は掴まえどころのない、のっぺりとした、一様の何かであって、それを「言語」が、人間的観点で、いわば人間の都合で、分節し、区切りをつけ、意味づけることによって、その掴まえどころのない何かが人間が感知する様々な「もの、こと」になってくる、すなわち「言語」によって我々の「経験的世界」が立ち現れてくるという考え方があります。
般若心経の「色即是空」というのは、この考え方に近いものでしょう。
人間が感知する様々な「もの、こと」が「色」であり、「言語」で分節され、区切られ、意味づけられる前の掴まえどころのない、のっぺりとした、一様の何かが「空」であるということになります。
そして、本来の姿である「空」を見て取るために、その本来の姿を隠してしまっている「言語」を取り払ってしまおうというのが禅の修行というもののようです。
ところが、ここで「待った!」の声がかかります。
「空」を分節し、区切りをつけ、意味づける機能を担った「言語」、「空」の世界を我々の「経験的世界」とする「言語」、それはいったいどこから来るのですか?
「言語」を人間的観点のもの、人間のご都合主義の産物と簡単に割り切ってしまっていいのですか?
こういう「待った!」の声です。
そして、このような疑問から、「言語」を人間の道具、手段として低い評価におとしめるのではなく、「言語」の機能こそ世界創造機能であると高く評価し、崇め奉る思想が登場してくることになるようです。
内容不案内ながら、「言語」、そして「言語」の展開の元となる基本の「音」は神秘的パワーを持つとして信仰の対象とするものに、空海の「阿字真言」(最初に口を開く音は「あ」であり、その「あ」がすべての始まりという考え)、ユダヤ教神秘主義にあるという「アーレフ崇拝」(「アーレフ」とはヘブライ文字の最初の音、「阿字真言」と同様の発想が感じられる)というものがあります。(脱線ながら、オーム真理教が改名した「アーレフ」というのはこの「アーレフ」ではないでしょうか。)
また、新約聖書ヨハネ福音書にある「太初(はじめ)に言葉(ロゴス)ありき」も、この考え方を表わしたものとも考えられます。
禅に象徴されるように「言語」に対する否定的立場もあり、「言語」の位置づけには180度の対立があることになります。
般若心経は、「色即是空」のあとに「空即是色」と続け、「色」は本来「空」でも、「空」はやはり「色」として我々に立ち現われるのだとしています。その般若心経は、阿字真言の空海にとっても言語否定の禅にとっても、その基本の教えとなっているはずですが、「言語」に対してどちらの立場をとっているのでしょうか?