2001年7月30日

  先日、反粒子〔粒子と反対の電荷を負う粒子〕は粒子よりもほんのわずか
だけ消滅する時期が早いことが日本で実験的に証明され、およそ150億年
前とされる宇宙の誕生〔ビッグ・バン〕において粒子とともに生成されたはず
の反粒子〔例えばマイナスの陽子〕がこの宇宙に存在しない理由が解明され
たとの報道がありました。

 このことに限らず、科学的事実は、我々が自分自身で発見したり、理論的
に導き出したりするものではないので、誰かから反論された場合、我々はそ
れに答える材料も能力も持ちあわせてはいません。

 ダーウインの進化論、アイシュタインの相対性理論などの自然科学につい
ても、神武天皇から仲哀天皇までは実在していないという津田左右吉の歴史
学についても、その他あらゆる分野の科学において事情は同様です。

 それでは、我々は何をもって、あることは科学的事実であり、あることは迷
信、神話に過ぎないと言うことができるのでしょうか。

 有効であるか否かということは、この場合決め手にはなりません。
 おまじない、祈祷の類がある種の病気に有効であることが知られています。
だからといって、おまじない、祈祷を科学的と言うことはできません。

 「もっともらしさ」などという我々の日常感覚はまったく頼りになりません。
 広大無辺と思われる宇宙が、その誕生時において陽子、中性子よりも微少
であったというビッグ・バン理論は、日常感覚をはるかに超えています。

 結局のところ、それぞれの分野に精通している専門家、その周辺の準専門
家が、それを科学的事実だと認めているということに我々は依存せざるを得な
いのです。

 したがって、専門家、準専門家の知的誠実性が強く求められるわけですが、
えせ専門家、えせ準専門家が横行しているのが実態です。
 繰り返しの実験が不可能な社会科学の分野、一部の自然科学の分野にお
いて、特に、マス・メディアの商業性に乗り、巧みに専門家面をして跳梁跋扈し
ている連中が目立ちます。

 我々は、彼らの真贋判定のため、人相学という非科学的方法に頼らなけれ
ばならないのかもしれません。